算すると、つまり銀行の帳簿のように収入と支出と平均します。すなわち人のためにする仕事の分量は取《と》りも直《なお》さず己のためにする仕事の分量という方程式がちゃんと数字の上に現われて参ります。もっとも吝《けち》で蓄《た》めている奴《やつ》があるかも知れないが、これは例外である。例外であるが蓄めていればそれだけの労力というものを後《あと》へ繰越《くりこ》すのだから、やはり同じ理窟《りくつ》になります。よくあいつは遊んでいて憎《にく》らしいとかまたはごろごろしていて羨《うらや》ましいとか金持の評判をするようですが、そもそも人間は遊んでいて食える訳のものではない。遊んでいるように見えるのは懐《ふところ》にある金が働いてくれているからのことで、その金というものは人のためにする事なしにただ遊んでいてできたものではない。親父《おやじ》が額に汗を出した記念だとかあるいは婆さんの臍繰《へそくり》だとか中には因縁付《いんねんつ》きの悪い金もありましょうけれども、とにかく何らか人のためにした符徴《ふちょう》、人のためにしてやったその報酬というものが、つまり自分の金になって、そうして自分はそのお蔭《かげ》でもって懐手《ふところで》をして遊んでいられるという訳でしょう。職業の性質というものはまあざっとこんなものです。
そこでネ、人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短かに述べれば人の御機嫌《ごきげん》を取ればというくらいの事に過ぎんのです。人にお世辞を使えばと云い変えても差支《さしつかえ》ないくらいのものです。だから御覧なさい。世の中には徳義的に観察するとずいぶん怪《け》しからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世《とせい》にしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒《ふらち》にもせよ、事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢《ぜいたく》を極《きわ》めていると言わなければならぬのです。道徳問題じゃない、事実問題である。現に芸妓《げいしゃ》というようなものは、私はあまり関係しないからして精《くわ》しいことは知らんけれどもとにかく一流の芸妓とか何とかなるとちょっと指環を買うのでも千円とか五百円という高価なものの中から撰取《よりどり》をして余裕があるように見える。私は今ここにニッケルの時計しか持っておらぬ。高尚な意味で云ったら芸妓よりも私の方が人のためにする事が多くはないだろうかという疑もあるが、どうも芸妓ほど人の気に入らない事もまたたしからしい。つまり芸妓は有徳な人だからああ云う贅沢ができる、いくら学問があっても徳の無い人間、人に好かれない人間というものは、ニッケルの時計ぐらい持って我慢しているよりほか仕方がないという結論に落ちて来る。だから私のいう人のためにするという意味は、一般の人の弱点|嗜好《しこう》に投ずると云う大きな意味で、小さい道徳――道徳は小さくありませぬが、まず事実の一部分に過ぎないのだから小さいと云っても差支《さしつかえ》ないでしょう。そう云う高尚ではあるが偏狭な意味で人のためにするというのではなく、天然の事実そのものを引きくるめて何でもかでも人に歓迎されるという意味の「ためにする」仕事を指したのであります。
そこで職業上における己のため人のためと云う事は以上のように御記憶を願っておいて、話がまた後戻りをする恐れがあるかも知れないが、前《ぜん》申した通り人文発達の順序として職業が大変割れて細かくなると妙な結果を我々に与えるものだからその結果を一口御話をして、そうして先へ進みたいと思います。私の見るところによると職業の分化|錯綜《さくそう》から我々の受ける影響は種々ありましょうが、そのうちに見逃す事のできない一種妙な者があります。というのはほかでもないが開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々は片輪《かたわ》な人間になってしまうという妙な現象が起るのであります。言い換えると自分の商売がしだいに専門的に傾《かたむ》いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三倍|乃至《ないし》四倍とだんだん速力を早めておいつかなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお隣りの事が皆目《かいもく》分らなくなってしまうのであります。こういうように人間が千筋も万筋もある職
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