のは、出立の数日|前《ぜん》暇乞《いとまごい》に来られた時である。長谷川君が余の家へ足を入れたのはこれが最初であってまた最終である。座敷へ通って、室内を見渡して、何だか伽藍《がらん》のようだねと云った。暇乞のためだから別段の話しも出なかったが、ただ門弟としての物集《もずめ》の御嬢さんと今一人|北国《ほっこく》の人の事を繰り返して頼んで行った。
 一日越えて、余が答礼に行った時は、不在で逢《あ》えなかった。見送りにはつい行かなかった。長谷川君とは、それきり逢えない事になってしまった。露都《ろと》在留中ただ一枚の端書《はがき》をくれた事がある。それには、弱い話だがこっちの寒さには敵《かな》わないとあった。余はその端書を見て気の毒のうちにも一種のおかしみを覚えた。まさか死ぬほど寒いとは思わなかったからである。しかし死ぬほど寒かったものと見える。長谷川君はとうとう死んでしまった。長谷川君は余を了解せず、余は長谷川君を了解しないで死んでしまった。生きていても、あれぎりの交際であったかも知れないが、あるいは、もっと親密になる機会が来たかも分らない。余は以上の長谷川君を、長谷川君として記憶するよりほかに仕方のない遠い朋友である。君の托されて行った物集の御嬢さんは時々見える。北国の人に至っては音信《たより》さえない。



底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:大野晋
1999年5月12日公開
2004年2月27日修正
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