いたのであります。すべて政治家なり文学者なりあるいは実業家なりを比較する場合に誰より誰の方が偉いとか優《まさ》っているとか云って、一概に上下の区別を立てようとするのはたいていの場合においてその道に暗い素人《しろうと》のやる事であります。専門の智識が豊かでよく事情が精《くわ》しく分っていると、そう手短かに纏《まと》めた批評を頭の中に貯えて安心する必要もなく、また批評をしようとすれば複雑な関係が頭に明暸《めいりょう》に出てくるからなかなか「甲より乙が偉い」という簡潔な形式によって判断が浮んで来ないのであります。幼稚な智識をもった者、没分暁漢《ぼつぶんぎょうかん》あるいは門外漢になると知らぬ事を知らないですましているのが至当であり、また本人もそのつもりで平気でいるのでしょうが、どうも処世上の便宜からそう無頓着《むとんじゃく》でいにくくなる場合があるのと、一つは物数奇《ものずき》にせよ問題の要点だけは胸に畳み込んでおく方が心丈夫なので、とかく最後の判断のみを要求したがります。さてその最後の判断と云えば善悪とか優劣とかそう範疇《はんちゅう》はたくさんないのですが無理にもこの尺度に合うようにどんな複雑なものでも委細|御構《おかまい》なく切り約《つづ》められるものと仮定してかかるのであります。中味は込入っていて眼がちらちらするだけだからせめて締括《しめくく》った総勘定《そうかんじょう》だけ知りたいと云うなら、まだ穏当な点もあるが、どんな動物を見ても要するにこれは牛かい馬かい牛馬一点張りですべて四つ足を品隲《ひんしつ》されては大分無理ができる。門外漢というものはこの無理に気がつかない、また気がついても構わない。どんな無理な判断でも与えてくれさえすれば安心する。だからお上《かみ》でも高等官一等を拵《こしら》えてみたり、二等を拵えてみたり、あるいは学士、博士を拵えてみたりして門外漢に対して便宜を与え、一種の締括《しめくく》りある二字か三字の記号を本来の区別と心得て満足する連中に安慰を与えている。以上を一口にして云えば物の内容を知り尽した人間、中味の内に生息している人間はそれほど形式に拘泥《こうでい》しないし、また無理な形式を喜ばない傾《かたむき》があるが、門外漢になると中味が分らなくってもとにかく形式だけは知りたがる、そうしてその形式がいかにその物を現すに不適当であっても何でも構わずに一種の智識として尊重すると云う事になるのであります。
 これは複雑の事を簡略の例で御話をするのでありますから、そのつもりでお聴きを願いますが、ここに一つの平面があって、それに他の平面が交叉しているとすると、この二つの平面の関係は何で示すかというと、申すまでもなくその両面の喰違った角度である。どっちが高いのでもないどっちが低いのでもない。三十度の角度をなしているとか、六十度の角度をなしているとか云えば極《きわ》めて明暸でそれより以外に説明する事も質問する事も何《なん》にもないのであります。それをこの二面がいつでも偶然平らに並行でもしているかのごとき了見《りょうけん》で、全体どっちが高いのですと聞かなければ承知ができないのは痛み入ります。人間と人間、事件と事件が衝突したり、捲《ま》き合ったり、ぐるぐる回転したりする時その優劣上下が明かに分るような性質程度で、その成行が比較さえできればいい訳だが、惜《お》しい哉《かな》この比較をするだけの材料、比較をするだけの頭、纏《まと》めるだけの根気がないために、すなわち門外漢であるがために、どうしても角度を知ることができないために、上下とか優劣とか持ち合せの定規《じょうぎ》で間に合せたくなるのは今申す通り門外漢の通弊でありますが、私の見るところでは豈独《あにひと》り門外漢のみならんやで、専門の学者もまたそう威張れた義理でもないような概括をして平気でいるのだから驚かれるのです。
 学者と云うものは、いろいろの事実を集めて法則を作ったり概括を致します。あるいは何主義とか号してその主義を一纏《ひとまと》めに致します。これは科学にあっても哲学にあっても必要の事であり、また便宜な事で誰しもそれに異存のあるはずはございません。例えば進化論とか、勢力保存とか云うとその言葉自身が必要であるばかりでなく、実際の事実の上において役に立っています。けれども悪くすると前《ぜん》申した子供や門外漢と同じように、内容にあまり合わない形式を拵えてただ表面上の纏りで満足している事が往々あるように思います。この間私は或学者の書いた本を読みました。それはオイケンと云って、近頃|独逸《ドイツ》で、有名な学者の著わしたものであります。もっともたくさんの著述のうちでごく短かい一冊を読んだだけでありますが、とにかくその人の説の中にこういう事が書いてありました。現代の人はしきりに自由とか開放とかいうような事を主張する。同時に秩序とか組織とか云うものを要求している。一方では束縛を解いて自由にして貰《もら》わなければたまらないと云っていながら、一方では(例えば資本家というようなものが)秩序とか組織を立てなければ事業が発展しないと騒いでいる。が、この二つの要求を較《くら》べると明かに矛盾である。――ここまでは宜《よろ》しいのです。しかしオイケンはこの矛盾はどっちかに片づけなければならず、また片づけらるべきものであるかのごとき語気で論じていたように記憶していますが――すなわちそういうように相反する事を同時に唱《とな》えておっては矛盾だから、モッと一纏《ひとまと》めにして、意味のある生活を人がやって行かなければならぬというような事を言うのです。ですがあなた方《がた》はまあどうお考えになりますか。オイケンの云う通りでよいと御思いですか、はたしてこの矛盾が一纏めになるものとお思いになりますか。また明かに矛盾しているというお考えでありますか。あなた方にこんな質問をかけたってつまらない、また掛ける必要もありません。が私はどう考えてもオイケンの説は無理だと思うのです。なぜ無理だと言いますと、資本家とかあるいは政府とか、あるいは教育者とか云うものが、総《すべ》て多数の人間を相手にしてそうして、何か事を手早く運び、手際《てぎわ》よく片づけようと云うためには、どうしたって統一と云う事と、組織と云う事と、秩序と云う事を真向《まっこう》に振翳《ふりかざ》さなければできない話である。例えば実業家が事業をする。そのために人夫を百人雇う。職工を千人雇う。そうして彼らの間に規律と云うものが無かったならば、――彼らのうちには今日は頭が痛いから休むというものもできようし、朝の七時からは厭《いや》だからおれは午後から出るとわがままを云うものもできようし、あるいは今日は少し早く切り上げて寄席《よせ》へ行くとか、あるいは今日は朝出がけに酒を飲むんだとか各々勝手な事を、ばらばらに行動されてはせっかく一箇月でできる事業も一年かかるか二年かかるか見込が立たなくなります。けれどもどうでしょうこういう軍人教育者実業家などが公務をしまって家へ帰ってさあこれからがおれの身体《からだ》だという場合に、やはり同じような窮屈極まる生活に甘んずるでしょうか。人によっては寝食の時間など大変規則正しい人もあるかも知れないが、原則から云えば楽に自由な骨休めをしたいと願いまたできるだけその呑気主義を実行するのが一般の習慣であります。すると彼らには明かに背馳《はいち》した両面の生活がある事になる。業務についた自分と業務を離れた自分とはどう見たって矛盾である。しかしこの矛盾は生活の性質から出るやむをえざる矛盾だから、形式から云えばいかにも矛盾のようであるけれども、実際の内面生活から云えばかく二様になる方がかえって本来の調和であって、無理にそれを片づけようとするならばそれこそ真の矛盾に陥《おちい》る訳じゃなかろうかと思います。なぜというと、一つは人を支配するための生活で、一つは自分の嗜慾《しよく》を満足させるための生活なのだから、意味が全く違う。意味が違えば様子も違うのがもっともだといったような話であります。反対の例を挙《あ》げて今度は同じ事を逆に説明してみましょう。世間には芸術家という一種の職業がある。これはすこぶる気まぐれ商売で、共同的にはけっして仕事ができない性質のものであります。幾らやかましい小言《こごと》を云われても個人的にこつこつやって行くのが原則になっています。しかもその個人が気の向いた時でなければけっして働けない。また働かないというはなはだわがままな自己本位の家業になっている。だから朝七時から十二時まで働かなければならないという秩序や組織や順序があったところで、それだけ手際《てぎわ》の良い仕事はできるものでない。すなわち自分の気の向いた時にやったものが一番気の乗った製作となって現われる。したがって芸術家に対しては今申した資本家教育者などの執務ぶりや授業ぶりはあてはまらない。がその個人的に出来上った芸術家でも、彼ら同業者の利益を団体として保護するためには、会なり倶楽部《クラブ》なり、組合なりを組織して、規則その他の束縛を受ける必要ができてくる。彼らの或者は今現にこれを実行しつつある。してみれば放縦不羈《ほうじゅうふき》を生命とする芸術家ですらも時と場合には組織立った会を起し、秩序ある行動を取り、統一のある機関を備えるのである。私はこれを生活の両面に伴う調和と名づけて、けっして矛盾の名を下したくない。矛盾には違なかろうがそれは単に形式上の矛盾であって内面の消息から云えばかえって生活の融合なのである。
 ここに学者なるものがあって、突然声を大にして、それは明かに矛盾である、どっちか一方が善くって一方が悪いにきまっている、あるいは一方が一方より小さくて一方が大きいに違いないから、一纏《ひとまと》めにしてモッと大きなもので括《くく》らなければならないと云ったならば、この学者は統一好きな学者の精神はあるにもかかわらず、実際には疎《うと》い人と云わなければならない。現にオイケンと云う人の著述を数多くは読んでおりませんが、私の読んだ限りで云えば、こんな非難を加えることができるようにも思います。こう論じてくると何だか学者は無用の長物のようにも見えるでしょうが私はけっしてそんな過激の説を抱《いだ》いているものではありません。学者は無論有益のものであります。学者のやる統一、概括と云うものの御蔭《おかげ》で我々は日常どのくらい便宜《べんぎ》を得ているか分りません。前に挙《あ》げた進化論と云う三字の言葉だけでも大変重宝なものであります。しかしながら彼ら学者にはすべてを統一したいという念が強いために、出来得る限り何《なん》でもかでも統一しようとあせる結果、また学者の常態として冷然たる傍観者の地位に立つ場合が多いため、ただ形式だけの統一で中味の統一にも何にもならない纏《まと》め方《かた》をして得意になる事も少なくないのは争うべからざる事実であると私は断言したいのです。
 冷然たる傍観者の態度がなぜにこの弊を醸《かも》すかとの御質問があるなら私はこう説明したい。ちょっと考えると、彼らは常人より判明《はっきり》した頭をもって、普通の者より根気強く、しっかり考えるのだから彼らの纏《まと》めたものに間違はないはずだと、こういうことになりますが、彼らは彼らの取扱う材料から一歩|退《しりぞ》いて佇立《たたず》む癖がある。云い換えれば研究の対象をどこまでも自分から離して眼の前に置こうとする。徹頭徹尾観察者である。観察者である以上は相手と同化する事はほとんど望めない。相手を研究し相手を知るというのは離れて知るの意でその物になりすましてこれを体得するのとは全く趣が違う。幾ら科学者が綿密に自然を研究したって、必竟《ひっきょう》ずるに自然は元の自然で自分も元の自分で、けっして自分が自然に変化する時期が来ないごとく、哲学者の研究もまた永久局外者としての研究で当の相手たる人間の性情に共通の脈を打たしていない場合が多い。学校の倫理の先生が幾ら偉い事を言ったって、つまり生徒は生徒、自分
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング