人があります。これが私なら、魂と云う字を手の平へ書いて坊さんに見せてやろうと思います。それと同じ事で客観的に愛が見られるなら、客観的に愛を書いて見ろと云われるなら、ただ愛[#「愛」に白丸傍点]とかいて見せます。甘[#「甘」に白丸傍点]いとか、辛[#「辛」に白丸傍点]いとか書くのと同じ意味で書いて見せます。白[#「白」に白丸傍点]いとか黒[#「黒」に白丸傍点]いとかいう意味で書いて見せます。しかし愛[#「愛」に白丸傍点]の一字じゃいけないから、もっと長く分るように書いて見ろと云われるなら、それじゃ小説でもかこうと申します。それが茶かすようで気に入らなければ、そんな無理を云わないで、誰それの愛を書けと明暸《めいりょう》に所有主を示して貰《もら》いたい、いくら僕が愛の客観的存在を認めても、ただの愛はかけない、根こぎにして引っこ抜いた愛だけはかけない、根こぎにして引っこ抜いた鉢植《はちうえ》の松を描《か》けという難題と同じ事だからと云ってごめんこうむります。それじゃ主観の叙述はほとんどなくなる訳だとまたおっしゃるかも知れませぬが、前から何遍も申す通り無論あるところでは主観も客観も双方一致しているので、書き手の心持、読み手の心持で判ずるよりほかに手のつけようのない場合がいくらでもあります。だから形式の上ではついに要領を得なくなります。しかしちょうど好い機会だから、今の幽霊の話を説明かたがたこの疑点をも明らかにしておきましょう。今申すごとくたとい愛の客観的存在を公認しても、これを叙述する時には、その愛の所有者と結びつけなければなりません。五官に訴え得るように取り扱わなければなりません。同時に愛を主観的の経験としてもやはり同様の手段に訴えなければ叙述ができません。しかしそれだから同じ事に帰着すると結論するのは少し誤っております。前の方は非我の事相のうちに愛を認めて、これを描出《びょうしゅつ》するので、後の方は我の愛を認めたる上、これを非我の世界に抛《な》げ出すのであります。すなわちその本位とするところは、我が味うところの愛という情操で、この無形無臭の情操に相応するような非我の事相を創設[#「創設」に白丸傍点]するのであります。非我の事相は自然から与えられたもので、一厘も動かすべからずとして、その一分子たる愛を叙して来るのと、我の切実に経験する愛を与えられたるものとして、もっとも適当にこれを叙述せんがために、非我の事相を任意に建立《こんりゅう》するのとの差になります。したがって両者はある点において一致するのはもちろんでありますが、極端に至ると大に趣を異にするのであります。先ほど述べた幽霊の恋物語のようなものはその極端の例の一つだと思います。ここに、こんな切な恋がある。これをどう云いあらわしたらば、云い終《おお》せるかとの試問に応じて出来上った答案と見なければなりません。世の中へ出て行って、どんな恋があるか探索して来いと云う命令に基《もとづ》いた、報告書と見ては見当が違います。したがって客観的価値の少ないものができたのであります。真と認められないものになりました。だからこの話を聞くと、マグダの結末ほどには、はあなるほど、こうもあろうとか、こうあるかも知れないねと云う気にはなりません。しかしながらその代りに、ごもっともだ、こうもありたいね、こうあれかしだと云う気にはたしかになれます。あれかしと云う語は裏面に事実じゃないと云う意味を含んでおりますから、つまりは嘘だと云う事に下落してしまいます。この下落が烈《はげ》しくなるととうてい読めなくなります。馬鹿馬鹿しくなります。例《たと》えば今の話しでも、もし船のあとを跟《つ》けるものが、幽霊でなくって、本当の女が、波の上をあるいて来て、ちょいと、あなたとか何とか云って手招ぎでもしたらそれこそ奇蹟《きせき》になります。幽霊ならば、有るとも無いとも証明ができないだけで済みますが、生きた人間が波の上を歩いては明かに自然の法則を破っております。いくら、かくあれかしと思ったって、冗談《じょうだん》じゃない、おのろけも好い加減にした方がよかろうと申したくなります。人を馬鹿にするにもほどがあらあね、まるで小供だと思っていやがると本を抛《な》げ出すかも知れません。(西遊記、アレビヤン・ナイト、もしくはシェーヴィング・オブ・シャグパットのようなものの面白味は別問題として論じなければなりません)して見ると私が前段に申した意味が自《おのず》から御明暸になりましたろう。すなわちいかな主観的な叙述でも、ある程度まで真を含んでおらんと読みにくいものである、そう截然《せつぜん》と片っ方づけられるものじゃないと云う事であります。この幽霊のごときは極端の極端の例であるから、積極的に真を含んでおらんとも云えましょうが、むやみに真を打ち壊して
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