のですから、他人にはよほど通用しにくくなる訳であります。一を聞いて十を知ると云う事がありますが、一を見て十を感ずる人でなければできない事です。しかも一を見て十を感ずる、その感じかたが、云いあらわした本人と一致しているかどうかに至るとはなはだむずかしい問題であります。要するに象徴として使うものは非我の世界中のものかも知れませんが、その暗示するところは自己[#「自己」に傍点]の気分であります。要するにおれ[#「おれ」に傍点]の気分であって、非常に厳密に言うと他人の気分ではない、外物の気分では無論ない。という傾向のあるところから、この種の象徴を主観的態度の第三段に置いて、数学の公式などの対と見立てました。(シモンズの仏蘭西《フランス》の象徴派を論じた文のなかに、こんな句があります。「我々が林中の木を一本一本に叙述するの煩《はん》を避けて、自然を怖《おそ》れて逃がれんとするがごとくもてなすと、ますます自然に近くなります。また普通の俗人は日常の雑事を捉《とら》えて実在に触れていると考えておりますが、これらの煩瑣《はんさ》な事件を掃蕩《そうとう》してしまうと、ますます人間に近くなるものであります。世界に先《さきだ》って生じ、世界に後れて残るべき人間の本体に近づくものであります」この人はまたカーライルの語を引用しています。「真正の象徴は明らかにまた直接に、無限をあらわしている。無限は象徴によって有限と合体する。眼に見えるようになる。あたかも達せらるるかのごとくに見える」この二人の言葉は多少 infinite longing と同じく、いささか形容の言葉のようにも思われますが、御参考のために、ここに引いておきます)
これで主観客観の三対|併《あわ》せて、六通りの叙述の説明を済ましました。そこでこれだけ説明すればあらゆる文学書中に出て来るすべてのものを説明し尽したとはけっして申すつもりではありません。しかしながらこれだけ説明すれば、吾人の経験の取扱い方の一般は分るだろうと思います。客観主観の両態度の意味と、その態度によって、叙述の様子がだんだんに左右へ離れて行く模様が分るだろうと思います。それが普通の人の分れ具合でまた創作家の分れ具合であります。だからつまるところは創作家の態度も常人の態度も同じ事に帰着してしまいます。何だつまらない、それがどうしたんだとおっしゃる方が、あるかも知れ
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