と思います。もちろん形式はこの叙述に叶《かな》っていましてもいっこう主観の分子を含んでおらんのがありますがそれは御注意を致しておきます。例えば茶柱が来客を代表したり、嚏《くさめ》が人の噂《うわさ》を代表したりするようなものであります。これは偶然の約束から成立した象徴でありますから、ここに云う種類には属しない訳であります。もっとも器械的の象徴も馬鹿にならんもので、習慣の結果茶柱を見て来客の時のような心持になったり、嚏をして、人の噂を耳にするような気分が起る人がないとも限りません。そう云う人にはこんな象徴もやはり主観的価値のあるものであります。だから本人の気の持ちよう一つでは、仁参《にんじん》が御三どんの象徴になって瓢箪《ひょうたん》が文学士の象徴になっても、ことごとく信心がらの鰯《いわし》の頭と同じような利目《ききめ》があります。なお進むと、烏鳴《からすな》きが凶事の記号になったり、波の音が永劫《えいごう》をあらわす響と聞えたり、星の輝きが人間の運命を黙示する光りに見えたりします。こうなると漸々主観的価値が増してくるのみならず、解剖の結果全く得手勝手な象徴でないと云う事も証明ができます。このくらいならばまだ、大した事はありません。第二段第一段とつながっているくらいのものでありますが、層々展開して極端に至ると妙な現象に到着します。ちょっとその説明を致します。我々は我々の気分(主観の内容)を非我の世界から得ます。しかし非我の世界は器械的法則の平衡を待って始めて落ちつくものであります。もしこの平衡を失えばすぐに崩《くず》れてしまいます。したがって自分がこういう気分になりたいと思った時に、その気分を起してくれる非我の世界の形相が具《そなわ》っておらん事があります。つまり非我の世界を支配する器械的法則が我の気分に応じて働いてはくれません。そこでこの法則の運行と、自分の気分と合体した時、すなわち自分がかくなりたいとかねがね希望していたかのごとき気分を生ずるときの非我の形相を、常住の公式に翻訳しようとするのが我々の欲望であります。例えば時鳥《ほととぎす》平安城を筋違《すじかい》にと云う俳句があります。平安城は器械的法則の平衡を保って存在しているのだから、そうむやみに崩れてはしまいません。それすら明治の今日には見る事ができません。いわんや時鳥は早い鳥であります。またその鳥が筋違に通る
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