Aを撰択する権利がない事になります。しかしながら前に我々の心を幅のある河に喩《たと》えた時、この川幅の一点だけが明暸《めいりょう》になるから、明暸になった一点だけが意識の焦点になって、他は皆|茫々《ぼうぼう》の裡《うち》に通過してしまう。そうしてその焦点は注意のもっとも強い所にできる、そうして注意はすなわち態度であると申しました。だから心の態度は撰択淘汰《せんたくとうた》の権を有しております。ここにAを与えられたとするのは、心の態度にAを撰択する権利がないと云う意味ではありません。すでに撰択せられたるAについての話であります。
本来ならば前に申した両態度がいかなる風に、いかなる性質の焦点を作るかを論じなければならんはずであります。しかしそうすると大変複雑な問題になりますし、また撰択の態度は、すなわち撰択されたものを叙述する態度と同じ事で、双方とも傾向に相違はないと考えます。前に云った色好きの浅井先生のような人に、エストミンスター・アベーが眼に着いたとすると、先生は自分の勝手でこの寺院を撰択した訳になりますが、さてこれを叙述する段になれば(腹の中で叙述しても、口で叙述しても、または筆で叙述しても)撰択した時の態度をもって細かに局部に向うだけの事であります。ただ叙述の際にある連想だとか、ある概念だとかある記号だとかアベー以外の材料をもって来て、アベーの色を説明するかも知れませんが、説明の道具に使われる材料もまた同じ態度で撰択《せんたく》したものでありますから、つまりは同じ事だろうと思います。(もっとも例外は出て来ます。態度が中途で代る事もあり得ます。しかしこれは些細《ささい》の事として御見逃しを願いたい)
そこでAを与えられたものと見て、これを叙述する様子がだんだんに分れて遠ざかるところだけを御話しをしたい。Aそのものは何だか分らないのですが、これを叙述する方法は主知(客観)の態度に三つ、主感(主観)の態度に三つ、そうして両方を一つずつ結びつけて対《つい》にする事ができるかと思います。当っている当っていないはもちろん大切でありますが、比較すると、よく対がとれているところに私は興味があるのでありますし、叙述となるとすでに文学の領分に、いつの間にか這入《はい》っておりますから、私の思いついたままを御参考に供します。
第一段は叙述が、一歩客観主観の両面へ展開した時の状態
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