究している訳でも何でもありゃしないのです。だから九十銭が一円でもただ旨《うま》く飲めさえすりゃ結構なんです。こういう点から云うと、両方が変っています。酒の味を利用して酒の性質を知ろうというのが番頭の仕事で、酒の味を旨《うま》がって、口舌の満足を得るというのが晩酌の状態であります。双方とも同じ経験に違いない。ただその経験の処置が異なっています。言葉を換えて云うと同様の経験について、眼の付け所が違う、注意の向け方が違っている。最後にこの講演に大事な言葉を用いて申しますと、態度[#「態度」に傍点]が違っております。(ここのところが少しヴントなどと違ってるかも知れません。ヴントのような専門の大家に対して異説を立てるのははなはだ恐縮ですが、私のは、こう行かないと説明になりませんから、こうしておきます。またこうしても、実際上|差支《さしつかえ》ないと信じます)
もう一歩進んで、この態度が違っていると云う事を説明しますと、番頭の方は酒の味を外へ抛《な》げ出す態度であります。すなわち自分の味覚をもって、自分以外のもの、(最前申した非我)の一部分を知る料に使うのであります。譬喩《ひゆ》で云うと、酒の味が舌の先から飛び出して、酒の中へ潜《ひそ》んで落ち着く方角に働くのであります。晩酌の方はこれが反対の方向に働いております。非我のうちに酒と云うものがあって、その酒が、ある因縁《いんねん》で、外から飛び込んで来て、我を冒《お》かした、もしくは我が冒されたと承知するのであります。詰《つづ》めて云うと、一は我から非我へ移る態度で、一は非我から我へ移る態度であります。一は非我が主、我が賓《ひん》という態度で、一は我が主、非我が賓と云う態度とも云えます。番頭から云うと酒の味自身が酒の属性になるのだから、これを属性的の経験とも云えましょう。晩酌から云うと酒の味が自己の幸不幸(あまり大袈裟《おおげさ》なら快不快)になるんだから感受的とでも云えましょう。洋語で云うと affective と申したら妥当だろうと思います。あるいは番頭の、自己にあらざる酒に重きを置く点から云えば客観的態度とも名づけられましょうし、晩酌の、自己に受くる刺激を、密切な自己の一部分と見傚《みな》す点から云えば、主観的とも申されましょう。または番頭の態度が非我を明らめようとする態度であるから、主知主義と云って善《よ》かろうと思いま
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