かのぼ》りますと――もうたくさんですか、しかしついでだから、もう一つ申しましょう。私はこの年になるが、いまだかつて生れたような心持がした事がない。しかし回顧して見るとたしかに某年某月の午《うま》の刻か、寅《とら》の時に、母の胎内から出産しているに違いない。違いないと申しながら、泣いた覚もなければ、浮世の臭《におい》もかいだ気がしません。親に聞くとたしかに泣いたと申します。が私から云わせると、冗談《じょうだん》云っちゃいけません。おおかたそりゃ人違いでしょうと云いたくなります。そこで我々内界の経験は、現在を去れば去るほど、あたかも他人の内界の経験であるかのごとき態度で観察ができるように思われます。こう云う意味から云うと、前に申した我のうちにも、非我と同様の趣で取り扱われ得る部分が出て参ります。すなわち過去の我は非我と同価値だから、非我の方へ分類しても差し支ないと云う結論になります。
かように我と非我とを区別しておいて、それから我が非我に対する態度を検査してかかります。心理学者の説によりますと、我々の意識の内容を構成する一刻中の要素は雑然|尨大《ぼうだい》なものでありまして、そのうちの一点が注意に伴《つ》れて明暸《めいりょう》になり得るのだと申します。これは時を離れて云う事であります。前に一刻中と云ったのは、まあ形容の語と思っていただけばよろしい。例えば私がこの演壇に立ってちょっと見廻わすと、千余人の顔が一度に眼に這入《はい》る。這入ったと云う感じはありますが、何となく同じ顔で、悪く云うと眼も鼻も揃《そろ》っていない人が並んでおいでになる。あながち私が度胸が据《すわ》らないで眼がちらちらするばかりではない。こう、漠然《ばくぜん》たるのが本来で、心理学者の保証するところであります。しかしこの際は不幸にして、別段私の注意を惹《ひ》くものがないから、ただ漠然たるのみで、別に明暸なるところがありません。もし演壇のすぐ前に美くしい衣装《いしょう》を着けた美くしい婦人でもおられたら、その周囲六尺ばかりは大いに明暸になるかも知れませんが、惜しい事においでにならんから、完全に私の心理状態を説明する訳に参りません。そこでこの漠然たる限界の広い内容を意識界と云って、そのうちで比較的明暸な点を焦点と申します。これは前《ぜん》申した通り時間の経過に重きを置かない simultaneous の
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