して弁じます。今ここに四角があるとする。するとこの四角を見る立場はいろいろである。横からも、竪《たて》からも、筋違《すじかい》からも、眼の位置と、角度を少し変えれば千差万別に見る事ができる。そうしてそのたびたびに四角の恰好が違う。けれども我々が四角に対する考は申し合せたように一致している。あらゆる見方、あらゆる恰好のうちで、たった一つ。――すなわち吾人の視線が四角形の面に直角に落ちる時に映じた形を正当な四角形だと心得ている。これを私の都合の好いように言い換えると、吾人は四角形を観る態度においてことごとく一致しているのであります。また別の例を申しますと彫刻などで云う foreshortening と云う事があります。誰でも心得ている事でありますが、人が手でも足でも前の方に出している姿勢を、こちらから眺めると、実際の手や足よりも短かく見えます。けれども本来はあれより長いものだと思って見ています。だから画心のない吾々《われわれ》が手や足を描こうとすると本来そのままの足や手を、方向のいかんにかかわらず、紙の上にあらわしたくなる。あらわして見るとどうも釣合がわるい。悪いけれども腹が承知をしないで妙な矛盾を感ずる。小供のかいた画を見るとこの心持ちが思い切って正直に出ています。これもこの際都合のいいように翻訳して云いますと、吾々が手や足の長さに対する態度はちゃんと申し合せたように一致していると云う事になります。
してみると世界は観様《みよう》でいろいろに見られる。極端に云えば人々《にんにん》個々別々の世界を持っていると云っても差支《さしつかえ》ない。同時にその世界のある部分は誰が見ても一様である。始めから相談して、こう見ようじゃありませんかと、規約の束縛を冥々《めいめい》のうちに受けている。そこで人間の頭が複雑になればなるほど、観察される事物も複雑になって来る。複雑になるんではないが、単純なものを複雑な頭でいろいろに見るから、つまりは物自身が複雑に変化すると同様の結果に陥《おちい》るのであります。これを前の言葉に戻して云うと、世が進むに従って、複雑な世界と複雑な世界観ができて、そうして一方ではこの複雑なものが統一される区域も拡《ひろ》がって来るのであります。
そこで創作家も一種の人間でありますから各々《めいめい》勝手な世界観を持って、勝手な世界を眺めているに違ない。しかしなが
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