ければ幾通りにも分けられる恋が書いてありますが、近代に至るとその区別がますます微細になりはせぬかと思われます。ゴンクールの書いたラフォースタンと云う小説のなかにはこんなのがあります。有名な女優があって、この女優がある英国の貴族と慇懃《いんぎん》を通じたままそれぎり幾年か音信不通の姿でおりましたところ、貴族の方では急に親が死んで、莫大《ばくだい》の遺産を相続するような都合になったので、今は結婚その他の点についても何人も喙《くちばし》を挟む事のできない身分でありますから、多年恋着していた婦人を正式に迎えるのはこの時と云うので、狂うばかりに喜んで、仏蘭西《フランス》へ渡りますと、女の方も固《もと》より深い仲の事でありましたから、泣いて分れたその日の通り大事に男の事を思いつづけていた折で、無論異存のあるはずはございません。めでたく結婚致します。それだけだとこれも陳腐《ちんぷ》なのですが、これから先が山であります。さて結婚をしてみると夫の方では金に不足のない身ではあるし、女房を女優にしておくのは何となく心配ですから、もう廃業したら善かろうと云う相談を持ちかけます。ところが細君の方はもともと役者が性《しょう》に合っている訳なんだからかどうか分りませんが、何となく廃《や》めたくなかったのであります。しかし可愛い男の云う事だから、厭《いや》な心を抑えて亭主の意に従います。それから二人で非常な贅沢《ぜいたく》をやります。嬉《うれ》しい中でいっしょになって、金を使いたいだけ使うんだから、幸福でなければならないはずですが、そこが妙なもので、細君が女優をやめてからというものは何となく気色が勝《すぐ》れなくなります。いくら夫が機嫌《きげん》をとっても浮き立ちません。と云って固々《もともと》憎《にく》い男ではないんだから粗略にする訳はない。しんそこ夫の事はいとしく思っているのであります。ただ心が陽気になれないだけなのですが、夫の方では最愛の細君の一顰一笑《いっぴんいっしょう》も千金より重い訳ですから、捨ておかれんと云うので慰藉《いしゃ》かたがた以太利《イタリー》へ旅行に出かけます。しかるに男は出先で病気に懸《かか》ります。細君は看病に怠りはございませんが、定業《じょうごう》はしかたのないものでとうとう死んでしまいます。その死ぬ少し前に例の通り細君が看病のため枕辺へ寄り添いますと、男はいつになく
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