《かんよう》を受けるので、また異趣味のものに逢着《ほうちゃく》するために啓発されるので、また高い趣味に引きつけられるがために、向上化するのであります。そうして世の中の運転は七分以上この趣味の発現に因《よ》るのでありますから、この趣味が孤立して立枯《たちが》れの姿になると、世の中の進行はとまります。とまらない部分は器械のように進行するのみであります。「誰さんは金が欲しいために、奥さんを離別しました」「そうか、それも一つの事実さね」「あの男は芸者を受け出すために泥棒をしたそうです」「はあ、それも一つの事実さね」「誰さんは、ちっとも約束を守らないで困りますよ」「なるほどそれも一つの事実だね」――こう事実ずくめで、ひどい奴《やつ》だとも感心な男だとも思わなかった日には、懐手《ふところで》をして、世の中を眺めているだけで、善にも移らないし、悪をも避けないし、壮挙をも企て得ないし、下劣をも恥じないし、花晨月夕《かしんげっせき》の興も尽きはてようし、夫婦としても、朋友《ほうゆう》としても、親子としても、通用しない人間になるでしょう。
ここまで来て、気がついて見ると、客観、主観両方面の文学には妙な差違が籠《こも》っております。純乎《じゅんこ》として真のみをあとづけようとする文学に在《あ》っては、人間の自由意思を否定しております。たとえばここに甲があって、ある憤《いきどお》りの結果、乙を殺す。罪を恐れて逃げる。後悔して自殺する。と仮定すると、憤りが源因で人を殺して、人を殺したのが源因で、罪を恐れるようになって、それがまた源因になって、後悔して、後悔の結果ついに自殺した事になりますから、かくのごとく層々発展して来る因果の纏綿《てんめん》は皆自然の法則によってできたものと見なければなりません。殺すのも、恐れるのも、悔ゆるのも、自殺するのも、けっして当人が勝手にやった訳ではない。殺して見ると、厭《いや》でも応でも恐れなくっちゃいられなくなり、恐れると、どんなに避けようとしても悔恨の念が生じ、悔恨の念は是非共自殺させなければやまないように逼《せま》って来る。この階段を踏んで死ななければならないような運命をもって生れた男と見傚《みな》すよりほかに致し方がなくなります。さっき用いた言葉で分るように申しますと、この男の所作《しょさ》は評価を離れたものになります。毀誉褒貶《きよほうへん》の外に立つ
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