なりません。文学者もその通りかと存じます。真を目的とする以上は、真を回避するのは卑怯《ひきょう》であります。露骨に書かなければなりません。大胆に忌憚《きたん》なく筆を着けなくっては、真に対して面目のない事になります。(この点において善、美、壮に対する情操と時々衝突を起す事は文芸の哲学的基礎において述べましたし、前段においても一方が強くなると、一方が弱くなる事実を例証しましたから御記憶を願います)けれども真に向って進む人が必ずしも好悪のない人とは申されません。真に向って進む間だけ好悪の念を脱却するのであります。尿を検査する医師がいつでも尿に無頓着《むとんじゃく》とは受け取れません。無頓着ならば食卓の上に便器があっても平然として食事ができるはずであります。虫の交尾するところを研究する動物学者だって、虫以外の万事までにその態度を応用する勇気はないでしょう。ただ真を研究する時だけ他を忘れ得るほどに真に熱中するのであると解釈しなければなりません。真を写す文学者もこの医者や動物学者と同じ態度で、平生は依然として善意に拘泥《こうでい》し、美醜に頓着し、壮劣に留意する人間である事は争うべからざるの事実であります。柳は緑、花は紅、そのほかに何の奇があると云います。しかし実際はこう素気《そっけ》ない世の中ではありません。柳に舟を繋《つな》ぎたくなったり、花の下で扇を翳《かざ》したくなるのが人情であります。
そこでこう云う事が起ります。真を描く文学は、真を究《きわ》めさえすればよろしいとなる。その結果他の情操と衝突しても、まあ好いとする。――読者の方では好いとしないかも知れませんが――しかしながら真は取捨なき事相であります。公平の叙述であります。好悪の念を離れたる描写であります。したがって褒貶《ほうへん》の私意を寓《ぐう》しては自家撞着《じかどうちゃく》の窮地に陥《おち》いります。ことに作以外の実際において、約束的にせよ善に与《くみ》し悪を忌《い》み、美を愛し、醜を嫌うものが、単に作物の上においてのみ矛《ほこ》を逆《さかさ》まにして悪を鼓吹《こすい》し、醜を奨励《しょうれい》する態度を示すのは、ただに標準を誤まるのみならず、誤まった標準を逆に使用している点において二重の自殺と云われても仕方がありますまい。書籍を買う条件で国から為替《かわせ》を取り寄せて、これを別途に支弁するからが、すで
前へ
次へ
全71ページ中54ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング