ろうと思います。だから大千世界の事実は、すでにその事実たるの点においてことごとく真なのであります。この事実は真だから好きだ、この事実は偽だから嫌《きらい》だと、どうしても取捨はできない訳であります。真偽取捨の生ずる場合は、この客観の事相を写し取った作物そのものについてこそ云われべきものであります。詳《くわ》しく云えば、傍観者がこの作物を自然そのものと比較するとき、もしくは甲の作と乙の作とを自然を標準として対照する時に始めて真偽ができ、取捨ができ、好悪が生ずるのであります。だから客観的態度で叙述した詩文には偽があるかも知れません、またあるはずであります。けれども客観的態度で向う世界には、偽は始めから存在しておらん、少なくとも真だけだとしなければ、最初から真の価値を認めないのと同様の結果に陥《おちい》ります。だからいやしくも真を本位として筆をとる以上は好悪の念を挟《はさ》む余地がない事になります。したがって取捨はないと一般に帰着致します。たとえば隣りに醜くい女がいる。見ても厭《いや》になるとおっしゃる。それはどうでも御随意でありましょうが、いくら醜くっても何でも現にいるものはいるに相違ありません。醜くいから戸籍に載せないとなった日には、区役所の調べはまるで当にならない事になります。偽りになります。気に喰わない生徒だからと云って点数表から省《はぶ》いたら、学校ほど信用のできない所はなくなるでしょう。して見ると、真を写す文字ほど公平なものはない。一視同仁の態度で、忌憚《きたん》なく容赦なく押して行くべきはずのものであります。ブルンチェルがバルザックを論じたうちにこんな句があります。自然派作家には、蛆《うじ》よりも象の方を大切だと考える権利がない。もちろん生物学上の発達から云ったら、象の方が重要な位地を占めているかも知れないが、何もこれは自然派作家が自分の意志で随意に重要にした訳ではない。――面白い句であります。(ブルンチェルのバルザック論はもちろん一人の著者についての議論でありますから系統的に理論は述べてありませんが、こういう点に関してはなはだ有益の参考書でありますから御一読を願います。この取捨のない意味なども、実はバルザック論のところどころにあるのを私が、纏《まと》めて布衍《ふえん》して行くくらいなものであります。この人は同書にまた、我《が》、浪漫派、抒情主義などと云う字
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