tを忘れし、拍手《はくしゅ》の興《きょう》を喚《よ》び起す事が出来よう。出来ぬと云わば生甲斐《いきがい》のない男である。
 されど一事《いちじ》に即《そく》し、一物《いちぶつ》に化《か》するのみが詩人の感興とは云わぬ。ある時は一弁《いちべん》の花に化し、あるときは一双《いっそう》の蝶《ちょう》に化し、あるはウォーヅウォースのごとく、一団の水仙に化して、心を沢風《たくふう》の裏《うち》に撩乱《りょうらん》せしむる事もあろうが、何《なん》とも知れぬ四辺《しへん》の風光にわが心を奪われて、わが心を奪えるは那物《なにもの》ぞとも明瞭《めいりょう》に意識せぬ場合がある。ある人は天地の耿気《こうき》に触るると云うだろう。ある人は無絃《むげん》の琴《きん》を霊台《れいだい》に聴くと云うだろう。またある人は知りがたく、解しがたき故に無限の域に※[#「にんべん+亶」、第3水準1−14−43]※[#「にんべん+回」、第3水準1−14−18]《せんかい》して、縹緲《ひょうびょう》のちまたに彷徨《ほうこう》すると形容するかも知れぬ。何と云うも皆その人の自由である。わが、唐木《からき》の机に憑《よ》りてぽかんとした心裡《しんり》の状態は正《まさ》にこれである。
 余は明《あきら》かに何事をも考えておらぬ。またはたしかに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがないから、われはいかなる事物に同化したとも云えぬ。されども吾は動いている。世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。ただ何となく動いている。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ恍惚《こうこつ》と動いている。
 強《し》いて説明せよと云わるるならば、余が心はただ春と共に動いていると云いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打って、固めて、仙丹《せんたん》に練り上げて、それを蓬莱《ほうらい》の霊液《れいえき》に溶《と》いて、桃源《とうげん》の日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間《ま》に毛孔《けあな》から染《し》み込んで、心が知覚せぬうちに飽和《ほうわ》されてしまったと云いたい。普通の同化には刺激がある。刺激があればこそ、愉快であろう。余の同化には、何と同化したか不分明《ふぶんみょう》であるから、毫《ごう》も刺激がない。刺激がないから、窈然《ようぜん》として名状しがたい楽《たのしみ》がある。風に揉《も》まれて上《うわ》の空《そら》なる波を起す、軽薄で騒々しい趣《おもむき》とは違う。目に見えぬ幾尋《いくひろ》の底を、大陸から大陸まで動いている※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1−87−13]洋《こうよう》たる蒼海《そうかい》の有様と形容する事が出来る。ただそれほどに活力がないばかりだ。しかしそこにかえって幸福がある。偉大なる活力の発現は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの懸念《けねん》が籠《こも》る。常の姿にはそう云う心配は伴わぬ。常よりは淡きわが心の、今の状態には、わが烈《はげ》しき力の銷磨《しょうま》しはせぬかとの憂《うれい》を離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。淡しとは単に捕《とら》え難しと云う意味で、弱きに過ぎる虞《おそれ》を含んではおらぬ。冲融《ちゅうゆう》とか澹蕩《たんとう》とか云う詩人の語はもっともこの境《きょう》を切実に言い了《おお》せたものだろう。
 この境界《きょうがい》を画《え》にして見たらどうだろうと考えた。しかし普通の画にはならないにきまっている。われらが俗に画と称するものは、ただ眼前《がんぜん》の人事風光をありのままなる姿として、もしくはこれをわが審美眼に漉過《ろくか》して、絵絹《えぎぬ》の上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の能事《のうじ》は終ったものと考えられている。もしこの上に一頭地《いっとうち》を抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの趣《おもむき》を添えて、画布の上に淋漓《りんり》として生動《せいどう》させる。ある特別の感興を、己《おの》が捕えたる森羅《しんら》の裡《うち》に寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が明瞭《めいりょう》に筆端に迸《ほとば》しっておらねば、画を製作したとは云わぬ。己《おの》れはしかじかの事を、しかじかに観《み》、しかじかに感じたり、その観方《みかた》も感じ方も、前人《ぜんじん》の籬下《りか》に立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっとも正しくして、もっとも美くしきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。
 この二種の製作家に主客《しゅかく》深浅の区別はあるかも知れぬが、明瞭なる外界の刺激を待って、始めて手を下すのは双方共
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