ノめてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如《きくきゅうじょ》として、あぶくを飲んで結構がるものはいわゆる茶人である。あんな煩瑣《はんさ》な規則のうちに雅味があるなら、麻布《あざぶ》の聯隊《れんたい》のなかは雅味で鼻がつかえるだろう。廻れ右、前への連中はことごとく大茶人でなくてはならぬ。あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育のない連中が、どうするのが風流か見当がつかぬところから、器械的に利休《りきゅう》以後の規則を鵜呑《うの》みにして、これでおおかた風流なんだろう、とかえって真の風流人を馬鹿にするための芸である。
「御茶って、あの流儀のある茶ですかな」
「いいえ、流儀も何もありゃしません。御厭《おいや》なら飲まなくってもいい御茶です」
「そんなら、ついでに飲んでもいいですよ」
「ほほほほ。父は道具を人に見ていただくのが大好きなんですから……」
「褒《ほ》めなくっちゃあ、いけませんか」
「年寄りだから、褒めてやれば、嬉しがりますよ」
「へえ、少しなら褒めて置きましょう」
「負けて、たくさん御褒めなさい」
「はははは、時にあなたの言葉は田舎《いなか》じゃない」
「人間は田舎なんですか」
「人間は田舎の方がいいのです」
「それじゃ幅《はば》が利《き》きます」
「しかし東京にいた事がありましょう」
「ええ、いました、京都にもいました。渡りものですから、方々にいました」
「ここと都と、どっちがいいですか」
「同じ事ですわ」
「こう云う静かな所が、かえって気楽でしょう」
「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。蚤《のみ》の国が厭《いや》になったって、蚊《か》の国へ引越《ひっこ》しちゃ、何《なん》にもなりません」
「蚤も蚊もいない国へ行ったら、いいでしょう」
「そんな国があるなら、ここへ出して御覧なさい。さあ出してちょうだい」と女は詰《つ》め寄せる。
「御望みなら、出して上げましょう」と例の写生帖をとって、女が馬へ乗って、山桜を見ている心持ち――無論とっさの筆使いだから、画《え》にはならない。ただ心持ちだけをさらさらと書いて、
「さあ、この中へ御這入《おはい》りなさい。蚤も蚊もいません」と鼻の前《さき》へ突きつけた。驚くか、恥ずかしがるか、この様子では、よもや、苦しがる事はなかろうと思って、ちょっと景色《けしき》を伺《うかが》うと、
「まあ、窮屈《きゅうくつ》な世界だこと、横幅《よこはば》ばかりじゃありませんか。そんな所が御好きなの、まるで蟹《かに》ね」と云って退《の》けた。余は
「わはははは」と笑う。軒端《のきば》に近く、啼《な》きかけた鶯《うぐいす》が、中途で声を崩《くず》して、遠き方《かた》へ枝移りをやる。両人《ふたり》はわざと対話をやめて、しばらく耳を峙《そばだ》てたが、いったん鳴き損《そこ》ねた咽喉《のど》は容易に開《あ》けぬ。
「昨日《きのう》は山で源兵衛に御逢《おあ》いでしたろう」
「ええ」
「長良《ながら》の乙女《おとめ》の五輪塔《ごりんのとう》を見ていらしったか」
「ええ」
「あきづけば、をばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」と説明もなく、女はすらりと節もつけずに歌だけ述べた。何のためか知らぬ。
「その歌はね、茶店で聞きましたよ」
「婆さんが教えましたか。あれはもと私のうちへ奉公したもので、私がまだ嫁に……」と云いかけて、これはと余《よ》の顔を見たから、余は知らぬ風《ふう》をしていた。
「私がまだ若い時分でしたが、あれが来るたびに長良の話をして聞かせてやりました。うただけはなかなか覚えなかったのですが、何遍も聴《き》くうちに、とうとう何もかも諳誦《あんしょう》してしまいました」
「どうれで、むずかしい事を知ってると思った。――しかしあの歌は憐《あわ》れな歌ですね」
「憐れでしょうか。私ならあんな歌は咏《よ》みませんね。第一、淵川《ふちかわ》へ身を投げるなんて、つまらないじゃありませんか」
「なるほどつまらないですね。あなたならどうしますか」
「どうするって、訳ないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、男妾《おとこめかけ》にするばかりですわ」
「両方ともですか」
「ええ」
「えらいな」
「えらかあない、当り前ですわ」
「なるほどそれじゃ蚊の国へも、蚤の国へも、飛び込まずに済む訳だ」
「蟹のような思いをしなくっても、生きていられるでしょう」
 ほーう、ほけきょうと忘れかけた鶯《うぐいす》が、いつ勢《いきおい》を盛り返してか、時ならぬ高音《たかね》を不意に張った。一度立て直すと、あとは自然に出ると見える。身を逆《さかし》まにして、ふくらむ咽喉《のど》の底を震《ふる》わして、小さき口の張り裂くるばかりに、
 ほーう、ほけきょーう。ほーー、ほけっーきょうーと、つづけ様《さ
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