Aいつしか描《か》く気がなくなった。描かぬとすれば、地位は構わん、どこへでも坐《すわ》った所がわが住居《すまい》である。染《し》み込んだ春の日が、深く草の根に籠《こも》って、どっかと尻を卸《おろ》すと、眼に入らぬ陽炎《かげろう》を踏《ふ》み潰《つぶ》したような心持ちがする。
 海は足の下に光る。遮ぎる雲の一片《ひとひら》さえ持たぬ春の日影は、普《あま》ねく水の上を照らして、いつの間にかほとぼりは波の底まで浸《し》み渡ったと思わるるほど暖かに見える。色は一刷毛《ひとはけ》の紺青《こんじょう》を平らに流したる所々に、しろかねの細鱗《さいりん》を畳んで濃《こま》やかに動いている。春の日は限り無き天《あめ》が下《した》を照らして、天が下は限りなき水を湛《たた》えたる間には、白き帆が小指の爪《つめ》ほどに見えるのみである。しかもその帆は全く動かない。往昔入貢《そのかみにゅうこう》の高麗船《こまぶね》が遠くから渡ってくるときには、あんなに見えたであろう。そのほかは大千《だいせん》世界を極《きわ》めて、照らす日の世、照らさるる海の世のみである。
 ごろりと寝《ね》る。帽子が額《ひたい》をすべって、やけに阿弥陀《あみだ》となる。所々の草を一二尺|抽《ぬ》いて、木瓜《ぼけ》の小株が茂っている。余が顔はちょうどその一つの前に落ちた。木瓜《ぼけ》は面白い花である。枝は頑固《がんこ》で、かつて曲《まが》った事がない。そんなら真直《まっすぐ》かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜《しゃ》に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅《べに》だか白だか要領を得ぬ花が安閑《あんかん》と咲く。柔《やわら》かい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚《おろ》かにして悟《さと》ったものであろう。世間には拙《せつ》を守ると云う人がある。この人が来世《らいせ》に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。
 小供のうち花の咲いた、葉のついた木瓜《ぼけ》を切って、面白く枝振《えだぶり》を作って、筆架《ひつか》をこしらえた事がある。それへ二銭五厘の水筆《すいひつ》を立てかけて、白い穂が花と葉の間から、隠見《いんけん》するのを机へ載《の》せて楽んだ。その日は木瓜《ぼけ》の筆架《ひつか》ばかり気にして寝た。あくる日、眼が覚《さ》めるや否《いな》や、飛び起きて、机の前へ行って見ると、花は萎《な》え葉は枯れて、白い穂だけが元のごとく光っている。あんなに奇麗なものが、どうして、こう一晩のうちに、枯れるだろうと、その時は不審《ふしん》の念に堪《た》えなかった。今思うとその時分の方がよほど出世間的《しゅっせけんてき》である。
 寝《ね》るや否や眼についた木瓜は二十年来の旧知己である。見詰めているとしだいに気が遠くなって、いい心持ちになる。また詩興が浮ぶ。
 寝ながら考える。一句を得るごとに写生帖に記《しる》して行く。しばらくして出来上ったようだ。始めから読み直して見る。
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出門多所思。春風吹吾衣。芳草生車轍。廃道入霞微。停※[#「竹かんむり/(エ+卩)」、第3水準1−89−60]而矚目。万象帯晴暉。聴黄鳥宛転。観落英紛霏。行尽平蕪遠。題詩古寺扉。孤愁高雲際。大空断鴻帰。寸心何窈窕。縹緲忘是非。三十我欲老。韶光猶依々。逍遥随物化。悠然対芬菲。
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 ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を観《み》て、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。と唸《うな》りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払《せきばらい》が聞えた。こいつは驚いた。
 寝返《ねがえ》りをして、声の響いた方を見ると、山の出鼻を回って、雑木《ぞうき》の間から、一人の男があらわれた。
 茶の中折《なかお》れを被《かぶ》っている。中折れの形は崩《くず》れて、傾《かたむ》く縁《へり》の下から眼が見える。眼の恰好《かっこう》はわからんが、たしかにきょろきょろときょろつくようだ。藍《あい》の縞物《しまもの》の尻を端折《はしょ》って、素足《すあし》に下駄がけの出《い》で立《た》ちは、何だか鑑定がつかない。野生《やせい》の髯《ひげ》だけで判断するとまさに野武士《のぶし》の価値はある。
 男は岨道《そばみち》を下りるかと思いのほか、曲り角からまた引き返した。もと来た路へ姿をかくすかと思うと、そうでもない。またあるき直してくる。この草原を、散歩する人のほかに、こんなに行きつ戻りつするものはないはずだ。しかしあれが散歩の姿であろうか。またあんな男がこの近辺《きんぺん》に住んでいるとも考えられない。男は時々立ち留《どま》る。首を傾ける。または四方を見廻わす
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