ワだ買うたなりじゃ」
「そうじゃろ。こないなのは支那《しな》でも珍らしかろうな、隠居さん」
「左様《さよう》」
「わしも一つ欲しいものじゃ。何なら久一さんに頼もうか。どうかな、買うて来ておくれかな」
「へへへへ。硯《すずり》を見つけないうちに、死んでしまいそうです」
「本当に硯どころではないな。時にいつ御立ちか」
「二三日《にさんち》うちに立ちます」
「隠居さん。吉田まで送って御やり」
「普段なら、年は取っとるし、まあ見合《みあわ》すところじゃが、ことによると、もう逢《あ》えんかも、知れんから、送ってやろうと思うております」
「御伯父《おじ》さんは送ってくれんでもいいです」
若い男はこの老人の甥《おい》と見える。なるほどどこか似ている。
「なあに、送って貰うがいい。川船《かわふね》で行けば訳はない。なあ隠居さん」
「はい、山越《やまごし》では難義だが、廻り路でも船なら……」
若い男は今度は別に辞退もしない。ただ黙っている。
「支那の方へおいでですか」と余はちょっと聞いて見た。
「ええ」
ええの二字では少し物足らなかったが、その上掘って聞く必要もないから控《ひか》えた。障子《しょうじ》を見ると、蘭《らん》の影が少し位置を変えている。
「なあに、あなた。やはり今度の戦争で――これがもと志願兵をやったものだから、それで召集されたので」
老人は当人に代って、満洲の野《や》に日ならず出征すべきこの青年の運命を余に語《つ》げた。この夢のような詩のような春の里に、啼《な》くは鳥、落つるは花、湧《わ》くは温泉《いでゆ》のみと思い詰《つ》めていたのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家《へいけ》の後裔《こうえい》のみ住み古るしたる孤村にまで逼《せま》る。朔北《さくほく》の曠野《こうや》を染むる血潮の何万分の一かは、この青年の動脈から迸《ほとばし》る時が来るかも知れない。この青年の腰に吊《つ》る長き剣《つるぎ》の先から煙りとなって吹くかも知れない。しかしてその青年は、夢みる事よりほかに、何らの価値を、人生に認め得ざる一画工の隣りに坐っている。耳をそばだつれば彼が胸に打つ心臓の鼓動さえ聞き得るほど近くに坐っている。その鼓動のうちには、百里の平野を捲《ま》く高き潮《うしお》が今すでに響いているかも知れぬ。運命は卒然《そつぜん》としてこの二人を一堂のうちに会したるのみにて、その他には何事をも語らぬ。
九
「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几《さんきゃくき》に縛《しば》りつけた、書物の一冊を抽《ぬ》いて読んでいた。
「御這入《おはい》りなさい。ちっとも構いません」
女は遠慮する景色《けしき》もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟《はんえり》の中から、恰好《かっこう》のいい頸《くび》の色が、あざやかに、抽《ぬ》き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開《あ》けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟《りくつ》だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然《はっきり》しない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。
「好きだか、嫌《きらい》だか自分にも解らないんじゃないですか」
「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の中《うち》を見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女の眸《ひとみ》は少しも動かない。
「ホホホホ解りませんか」
「しかし若いうちは随分御読みなす
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