》も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。
そこで眼が醒《さ》めた。腋《わき》の下から汗が出ている。妙に雅俗混淆《がぞくこんこう》な夢を見たものだと思った。昔し宋《そう》の大慧禅師《だいえぜんじ》と云う人は、悟道の後《のち》、何事も意のごとくに出来ん事はないが、ただ夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、なるほどもっともだ。文芸を性命《せいめい》にするものは今少しうつくしい夢を見なければ幅《はば》が利《き》かない。こんな夢では大部分画にも詩にもならんと思いながら、寝返りを打つと、いつの間にか障子《しょうじ》に月がさして、木の枝が二三本|斜《なな》めに影をひたしている。冴《さ》えるほどの春の夜《よ》だ。
気のせいか、誰か小声で歌をうたってるような気がする。夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながらに紛《まぎ》れ込んだのかと耳を峙《そばだ》てる。たしかに誰かうたっている。細くかつ低い声には相違ないが、眠らんとする春の夜《よ》に一縷《いちる》の脈をかすかに搏《う》たせつつある。不思議な事に、その調子はとにかく、文句をきくと――枕元でやってるのでないから、文句のわかりようはない。――その聞えぬはずのものが、よく聞える。あきづけば、をばなが上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかもと長良《ながら》の乙女《おとめ》の歌を、繰り返し繰り返すように思われる。
初めのうちは椽《えん》に近く聞えた声が、しだいしだいに細く遠退《とおの》いて行く。突然とやむものには、突然の感はあるが、憐《あわ》れはうすい。ふっつりと思い切ったる声をきく人の心には、やはりふっつりと思い切ったる感じが起る。これと云う句切りもなく自然《じねん》に細《ほそ》りて、いつの間にか消えるべき現象には、われもまた秒《びょう》を縮め、分《ふん》を割《さ》いて、心細さの細さが細る。死なんとしては、死なんとする病夫《びょうふ》のごとく、消えんとしては、消えんとする灯火《とうか》のごとく、今やむか、やむかとのみ心を乱すこの歌の奥には、天下の春の恨《うら》みをことごとく萃《あつ》めたる調べがある。
今までは床《とこ》の中に我慢して聞いていたが、聞く声の遠ざかるに連れて、わが耳は、釣り出さるると知りつつも、その声を追いかけたくなる。細くなれ
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