》越ゆるや春の雨
[#ここで字下げ終わり]
と、今度は斜《はす》に書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。
「また誰ぞ来ました」と婆さんが半《なか》ば独《ひと》り言《ごと》のように云う。
 ただ一条《ひとすじ》の春の路だから、行くも帰るも皆近づきと見える。最前|逢《お》うた五六匹のじゃらんじゃらんもことごとくこの婆さんの腹の中でまた誰ぞ来たと思われては山を下《くだ》り、思われては山を登ったのだろう。路|寂寞《じゃくまく》と古今《ここん》の春を貫《つらぬ》いて、花を厭《いと》えば足を着くるに地なき小村《こむら》に、婆さんは幾年《いくねん》の昔からじゃらん、じゃらんを数え尽くして、今日《こんにち》の白頭《はくとう》に至ったのだろう。
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馬子《まご》唄や白髪《しらが》も染めで暮るる春
[#ここで字下げ終わり]
と次のページへ認《したた》めたが、これでは自分の感じを云い終《おお》せない、もう少し工夫《くふう》のありそうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考えた。何でも白髪[#「白髪」に傍点]という字を入れて、幾代の節[#「幾代の節」に傍点]と云う句を入れて、馬子唄[#「馬子唄」に傍点]という題も入れて、春の季《き》も加えて、それを十七字に纏《まと》めたいと工夫しているうちに、
「はい、今日は」と実物の馬子が店先に留《とま》って大きな声をかける。
「おや源さんか。また城下へ行くかい」
「何か買物があるなら頼まれて上げよ」
「そうさ、鍛冶町《かじちょう》を通ったら、娘に霊厳寺《れいがんじ》の御札《おふだ》を一枚もらってきておくれなさい」
「はい、貰ってきよ。一枚か。――御秋《おあき》さんは善《よ》い所へ片づいて仕合せだ。な、御叔母《おば》さん」
「ありがたい事に今日《こんにち》には困りません。まあ仕合せと云うのだろか」
「仕合せとも、御前。あの那古井《なこい》の嬢さまと比べて御覧」
「本当に御気の毒な。あんな器量を持って。近頃はちっとは具合がいいかい」
「なあに、相変らずさ」
「困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。
「困るよう」と源さんが馬の鼻を撫《な》でる。
 枝繁《えだしげ》き山桜の葉も花も、深い空から落ちたままなる雨の塊《かた》まりを、しっぽりと宿していたが、この時わたる風に足をすくわれて、いたたまれずに、仮《か》りの住居《すまい》
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