sいくつ》でも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、樹《き》の上で妙な節《ふし》の唄《うた》をうたい出した。東京では蜜柑の皮でさえ薬種屋《やくしゅや》へ買いに行かねばならぬのにと思った。夜になると、しきりに銃《つつ》の音がする。何だと聞いたら、猟師《りょうし》が鴨《かも》をとるんだと教えてくれた。その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ。
あの女を役者にしたら、立派な女形《おんながた》が出来る。普通の役者は、舞台へ出ると、よそ行きの芸をする。あの女は家のなかで、常住《じょうじゅう》芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然《しぜんてんねん》に芝居をしている。あんなのを美的生活《びてきせいかつ》とでも云うのだろう。あの女の御蔭《おかげ》で画《え》の修業がだいぶ出来た。
あの女の所作《しょさ》を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日もいたたまれん。義理とか人情とか云う、尋常の道具立《どうぐだて》を背景にして、普通の小説家のような観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。現実世界に在《あ》って、余とあの女の間に纏綿《てんめん》した一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語《ごんご》に絶するだろう。余のこのたびの旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものはことごとく画として見なければならん。能、芝居、もしくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。この覚悟の眼鏡《めがね》から、あの女を覗《のぞ》いて見ると、あの女は、今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりもなおうつくしい。
こんな考《かんがえ》をもつ余を、誤解してはならん。社会の公民として不適当だなどと評してはもっとも不届《ふとど》きである。善は行い難い、徳は施《ほど》こしにくい、節操は守り安からぬ、義のために命を捨てるのは惜しい。これらをあえてするのは何人《なんびと》に取っても苦痛である。その苦痛を冒《おか》すためには、苦痛に打ち勝つだけの愉快がどこかに潜《ひそ》んでおらねばならん。画と云うも、詩と云うも、あるは芝居と云うも、この悲酸《ひさん》のうちに籠《こも》る快感の別号に過ぎん。この趣《おもむ》きを解し得て、始めて吾人《ごじん》の所作は壮烈にもなる、
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