トを睨《にら》めて、この草の香《か》を臭《か》いで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。
 御倉さんはもう赤い手絡《てがら》の時代さえ通り越して、だいぶんと世帯《しょたい》じみた顔を、帳場へ曝《さら》してるだろう。聟《むこ》とは折合《おりあい》がいいか知らん。燕《つばくろ》は年々帰って来て、泥《どろ》を啣《ふく》んだ嘴《くちばし》を、いそがしげに働かしているか知らん。燕と酒の香《か》とはどうしても想像から切り離せない。
 三本の松はいまだに好《い》い恰好《かっこう》で残っているかしらん。鉄灯籠はもう壊れたに相違ない。春の草は、昔《むか》し、しゃがんだ人を覚えているだろうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知ろうはずがない。御倉《おくら》さんの旅の衣は鈴懸の[#「旅の衣は鈴懸の」に傍点]と云う、日《ひ》ごとの声もよも聞き覚えがあるとは云うまい。
 三味《しゃみ》の音《ね》が思わぬパノラマを余の眼前《がんぜん》に展開するにつけ、余は床《ゆか》しい過去の面《ま》のあたりに立って、二十年の昔に住む、頑是《がんぜ》なき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと開《あ》いた。
 誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入口に注《そそ》ぐ。湯槽《ゆぶね》の縁《ふち》の最も入口から、隔《へだ》たりたるに頭を乗せているから、槽《ふね》に下《くだ》る段々は、間《あいだ》二丈を隔てて斜《なな》めに余が眼に入る。しかし見上げたる余の瞳にはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒を遶《めぐ》る雨垂《あまだれ》の音のみが聞える。三味線はいつの間《ま》にかやんでいた。
 やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を照《てら》すものは、ただ一つの小さき釣《つ》り洋灯《ランプ》のみであるから、この隔りでは澄切った空気を控《ひか》えてさえ、確《しか》と物色《ぶっしょく》はむずかしい。まして立ち上がる湯気の、濃《こまや》かなる雨に抑《おさ》えられて、逃場《にげば》を失いたる今宵《こよい》の風呂に、立つを誰とはもとより定めにくい。一段を下り、二段を踏んで、まともに、照らす灯影《ほかげ》を浴びたる時でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。
 黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞※[#「毬」の「求」に代えて「戎」、第4水準2−78−11]《びろうど》のごとく柔《や
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