ヘせぬが、薄絹を一重《ひとえ》破れば、何の苦もなく、下界の人と、己《おの》れを見出すように、浅きものではない。一重破り、二重破り、幾重を破り尽すともこの煙りから出す事はならぬ顔に、四方よりわれ一人を、温《あたた》かき虹《にじ》の中《うち》に埋《うず》め去る。酒に酔うと云う言葉はあるが、煙りに酔うと云う語句を耳にした事がない。あるとすれば、霧には無論使えぬ、霞には少し強過ぎる。ただこの靄に、春宵《しゅんしょう》の二字を冠したるとき、始めて妥当なるを覚える。
 余は湯槽《ゆぶね》のふちに仰向《あおむけ》の頭を支《ささ》えて、透《す》き徹《とお》る湯のなかの軽《かろ》き身体《からだ》を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂《ただよ》わして見た。ふわり、ふわりと魂《たましい》がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽《らく》なものだ。分別《ふんべつ》の錠前《じょうまえ》を開《あ》けて、執着《しゅうじゃく》の栓張《しんばり》をはずす。どうともせよと、湯泉《ゆ》のなかで、湯泉《ゆ》と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督《キリスト》の御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、土左衛門《どざえもん》は風流《ふうりゅう》である。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択《えら》んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画《え》になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩《ひゆ》になってしまう。痙攣的《けいれんてき》な苦悶《くもん》はもとより、全幅の精神をうち壊《こ》わすが、全然|色気《いろけ》のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、
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