ぐ私にこんな返事をした。
「そりゃ癒ったとは云われませんね。そう時々再発するようじゃ。まあもとの病気の継続なんでしょう」
この継続という言葉を聞いた時、私は好い事を教えられたような気がした。それから以後は、「どうかこうか生きています」という挨拶《あいさつ》をやめて、「病気はまだ継続中です」と改ためた。そうしてその継続の意味を説明する場合には、必ず欧洲の大乱を引合《ひきあい》に出した。
「私はちょうど独乙《ドイツ》が聯合軍《れんごうぐん》と戦争をしているように、病気と戦争をしているのです。今こうやってあなたと対坐していられるのは、天下が太平になったからではないので、塹壕《ざんごう》の中《うち》に這入《はい》って、病気と睨《にら》めっくらをしているからです。私の身体《からだ》は乱世です。いつどんな変《へん》が起らないとも限りません」
或人は私の説明を聞いて、面白そうにははと笑った。或人は黙っていた。また或人は気の毒らしい顔をした。
客の帰ったあとで私はまた考えた。――継続中のものはおそらく私の病気ばかりではないだろう。私の説明を聞いて、笑談《じょうだん》だと思って笑う人、解らないで黙っている人、同情の念に駆《か》られて気の毒らしい顔をする人、――すべてこれらの人の心の奥には、私の知らない、また自分達さえ気のつかない、継続中のものがいくらでも潜《ひそ》んでいるのではなかろうか。もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼らははたしてどう思うだろう。彼らの記憶はその時もはや彼らに向って何物をも語らないだろう。過去の自覚はとくに消えてしまっているだろう。今と昔とまたその昔の間に何らの因果を認める事のできない彼らは、そういう結果に陥《おちい》った時、何と自分を解釈して見る気だろう。所詮《しょせん》我々は自分で夢の間《ま》に製造した爆裂弾を、思い思いに抱《いだ》きながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。ただどんなものを抱《だ》いているのか、他《ひと》も知らず自分も知らないので、仕合せなんだろう。
私は私の病気が継続であるという事に気がついた時、欧洲の戦争もおそらくいつの世からかの継続だろうと考えた。けれども、それがどこからどう始まって、どう曲折して行くかの問題になると全く無知識なので、継続という言葉を解しない一般の人を、私はかえって羨《うらや》ましく思っている。
三十一
私がまだ小学校に行っていた時分に、喜《き》いちゃんという仲の好い友達があった。喜いちゃんは当時|中町《なかちょう》の叔父さんの宅《うち》にいたので、そう道程《みちのり》の近くない私の所からは、毎日会いに行く事が出来|悪《にく》かった。私はおもに自分の方から出かけないで、喜いちゃんの来るのを宅で待っていた。喜いちゃんはいくら私が行かないでも、きっと向うから来るにきまっていた。そうしてその来る所は、私の家の長屋を借りて、紙や筆を売る松さんの許《もと》であった。
喜いちゃんには父母《ちちはは》がないようだったが、小供の私には、それがいっこう不思議とも思われなかった。おそらく訊《き》いて見た事もなかったろう。したがって喜いちゃんがなぜ松さんの所へ来るのか、その訳さえも知らずにいた。これはずっと後で聞いた話であるが、この喜いちゃんの御父《おとっ》さんというのは、昔《むか》し銀座の役人か何かをしていた時、贋金《にせがね》を造ったとかいう嫌疑《けんぎ》を受けて、入牢《じゅうろう》したまま死んでしまったのだという。それであとに取り残された細君が、喜いちゃんを先夫《せんぷ》の家へ置いたなり、松さんの所へ再縁したのだから、喜いちゃんが時々|生《うみ》の母に会いに来るのは当り前の話であった。
何にも知らない私は、この事情を聞いた時ですら、別段変な感じも起さなかったくらいだから、喜いちゃんとふざけまわって遊ぶ頃に、彼の境遇などを考えた事はただの一度もなかった。
喜いちゃんも私も漢学が好きだったので、解りもしない癖《くせ》に、よく文章の議論などをして面白がった。彼はどこから聴いてくるのか、調べてくるのか、よくむずかしい漢籍の名前などを挙《あ》げて、私を驚ろかす事が多かった。
彼はある日私の部屋同様になっている玄関に上り込んで、懐《ふところ》から二冊つづきの書物を出して見せた。それは確《たしか》に写本であった。しかも漢文で綴《つづ》ってあったように思う。私は喜いちゃんから、その書物を受け取って、無意味にそこここを引《ひ》っ繰返《くりかえ》して見ていた。実は何が何だか私にはさっぱり解らなかったのである。しかし喜いちゃんは、それを知ってるかなどと露骨な事をいう性質《たち》ではなかった。
「これは太田南畝《おおたなん
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