なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。
幕の間には役者に随《つ》いている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこの縮緬《ちりめん》の模様のある着物の上に袴《はかま》を穿《は》いた男の後《あと》に跟《つ》いて、田之助《たのすけ》とか訥升《とっしょう》とかいう贔屓《ひいき》の役者の部屋へ行って、扇子《せんす》に画《え》などを描《か》いて貰って帰ってくる。これが彼らの見栄《みえ》だったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。
帰りには元《もと》来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。無要心《ぶようじん》だからと云って、下男がまた提灯《ちょうちん》を点《つ》けて迎《むかえ》に行く。宅《うち》へ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半《よなか》から夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。……
こんな華麗《はなやか》な話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。
もっとも私の家も侍分《さむらいぶん》ではなかった。派出《はで》な付合《つきあい》をしなければならない名主《なぬし》という町人であった。私の知っている父は、禿頭《はげあたま》の爺《じい》さんであったが、若い時分には、一中節《いっちゅうぶし》を習ったり、馴染《なじみ》の女に縮緬《ちりめん》の積夜具《つみやぐ》をしてやったりしたのだそうである。青山に田地《でんち》があって、そこから上って来る米だけでも、家《うち》のものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米を舂《つ》く音を始終《しじゅう》聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関《げんか》玄関と称《とな》えていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついた厳《いか》めしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒《つくぼう》や、袖搦《そでがらみ》や刺股《さつまた》や、また古ぼけた馬上《ばじょう》提灯などが、並んで懸《か》けてあった昔なら、私でもまだ覚えている。
二十二
この二三年来私はたいてい年に一度くらいの割で病気をする。そうして床《とこ》についてから床を上げるまでに、ほぼ一月《ひとつき》の日数《ひかず》を潰《つぶ》してしまう。
私の病気と云えば、いつもきまった胃の故障なので、いざとなると、絶食療法よりほかに手の着けようがなくなる。医者の命令ばかりか、病気の性質そのものが、私にこの絶食を余儀なくさせるのである。だから病み始めより回復期に向った時の方が、余計|痩《や》せこけてふらふらする。一カ月以上かかるのもおもにこの衰弱が祟《たた》るからのように思われる。
私の立居《たちい》が自由になると、黒枠《くろわく》のついた摺物《すりもの》が、時々私の机の上に載せられる。私は運命を苦笑する人のごとく、絹帽《シルクハット》などを被《かぶ》って、葬式の供に立つ、俥《くるま》を駆《か》って斎場《さいじょう》へ駈《か》けつける。死んだ人のうちには、御爺さんも御婆さんもあるが、時には私よりも年歯《とし》が若くって、平生からその健康を誇っていた人も交《まじ》っている。
私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多病な私はなぜ生き残っているのだろうかと疑って見る。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。
私としてこういう黙想に耽《ふけ》るのはむしろ当然だといわなければならない。けれども自分の位地《いち》や、身体《からだ》や、才能や――すべて己《おの》れというもののおり所を忘れがちな人間の一人《いちにん》として、私は死なないのが当り前だと思いながら暮らしている場合が多い。読経《どきょう》の間ですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私という形骸《けいがい》を、ちっとも不思議と心得ずに澄ましている事が常である。
或人が私に告げて、「他《ひと》の死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々|斃《たお》れるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう」と答えた。それから大学の理科に関係のある人に、飛行機の話を聴《き》かされた時に、こんな問答をした覚えもある。
「ああして始終《しじゅう》落ちたり死んだりしたら、後から乗るものは怖《こわ
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