い。私が旧劇を見て、最も異様に感ずるのは、役者が自然と不自然の間を、どっちつかずにぶらぶら歩いている事である。それが私に、中腰《ちゅうごし》と云ったような落ちつけない心持を引き起させるのも恐らく理の当然なのだろう。
しかし舞台の上に子供などが出て来て、甲《かん》の高い声で、憐《あわ》れっぽい事などを云う時には、いかな私でも知らず知らず眼に涙が滲《にじ》み出る。そうしてすぐ、ああ騙《だま》されたなと後悔する。なぜあんなに安っぽい涙を零《こぼ》したのだろうと思う。
「どう考えても騙されて泣くのは厭《いや》だ」と私はある人に告げた。芝居好のその相手は、「それが先生の常態なのでしょう。平生涙を控《ひか》え目《め》にしているのは、かえってあなたのよそゆきじゃありませんか」と注意した。
私はその説に不服だったので、いろいろの方面から向《むこう》を納得させようとしているうちに、話題がいつか絵画の方に滑《すべ》って行った。その男はこの間参考品として美術協会に出た若冲《じゃくちゅう》の御物《ぎょぶつ》を大変に嬉《うれ》しがって、その評論をどこかの雑誌に載せるとかいう噂《うわさ》であった。私はまたあの鶏の図がすこぶる気に入らなかったので、ここでも芝居と同じような議論が二人の間に起った。
「いったい君に画《え》を論ずる資格はないはずだ」と私はついに彼を罵倒《ばとう》した。するとこの一言《いちごん》が本《もと》になって、彼は芸術一元論を主張し出した。彼の主意をかいつまんで云うと、すべての芸術は同じ源《みなもと》から湧《わ》いて出るのだから、その内の一つさえうんと腹に入れておけば、他は自《おの》ずから解し得られる理窟《りくつ》だというのである。座にいる人のうちで、彼に同意するものも少なくなかった。
「じゃ小説を作れば、自然柔道も旨《うま》くなるかい」と私が笑談《じょうだん》半分に云った。
「柔道は芸術じゃありませんよ」と相手も笑いながら答えた。
芸術は平等観から出立するのではない。よしそこから出立するにしても、差別観《さべつかん》に入《い》って始めて、花が咲くのだから、それを本来の昔へ返せば、絵も彫刻も文章も、すっかり無に帰してしまう。そこに何で共通のものがあろう。たとい有ったにしたところで、実際の役には立たない。彼我共通の具体的のものなどの発見もできるはずがない。
こういうのがその
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