失礼だと思って、わざと引込《ひっこ》んでいたのです」
 これに対する楠緒さんの挨拶《あいさつ》も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事のできないほど、記憶の底に沈んでしまった。
 楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支《さしつかえ》ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺《かん》の中」という手向《たむけ》の句を楠緒さんのために咏《よ》んだ。それを俳句の好きなある男が嬉《うれ》しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。

        二十六

 益《ます》さんがどうしてそんなに零落《おちぶれ》たものか私には解らない。何しろ私の知っている益さんは郵便脚夫であった。益さんの弟の庄さんも、家《うち》を潰《つぶ》して私の所へ転《ころ》がり込んで食客《いそうろう》になっていたが、これはまだ益さんよりは社会的地位が高かった。小供の時分本町の鰯屋《いわしや》へ奉公に行っていた時、浜の西洋人が可愛《かわい》がって、外国へ連れて行くと云ったのを断ったのが、今考えると残念だなどと始終《しじゅう》話していた。
 二人とも私の母方の従兄《いとこ》に当る男だったから、その縁故で、益さんは弟《おとと》に会うため、また私の父に敬意を表するため、月に一遍ぐらいは、牛込の奥まで煎餅《せんべい》の袋などを手土産《てみやげ》に持って、よく訪ねて来た。
 益さんはその時何でも芝の外《はず》れか、または品川近くに世帯を持って、一人暮しの呑気《のんき》な生活を営んでいたらしいので、宅《うち》へ来るとよく泊まって行った。たまに帰ろうとすると、兄達が寄ってたかって、「帰ると承知しないぞ」などと威嚇《おどか》したものである。
 当時二番目と三番目の兄は、まだ南校《なんこう》へ通っていた。南校というのは今の高等商業学校の位置にあって、そこを卒業すると、開成学校すなわち今日《こんにち》の大学へ這入《はい》る組織《そしょく》になっていたものらしかった。彼らは夜になると、玄関に桐《きり》の机を並べて、明日《あした》の下読《したよみ》をする。下読と云ったところで、今の書生のやるのとはだいぶ違っていた。グードリッチの英国史といったような本を、一節ぐらいずつ読んで、そ
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