う」
「そうかも知れませんが、形や色が始終《しじゅう》変っているうちに、少しも変らないものが、どうしてもあるのです」
「その変るものと変らないものが、別々だとすると、要するに心が二つある訳になりますが、それで好いのですか。変るものはすなわち変らないものでなければならないはずじゃありませんか」
こう云った私はまた問題を元に返して女に向った。
「すべて外界のものが頭のなかに入って、すぐ整然と秩序なり段落なりがはっきりするように納まる人は、おそらくないでしょう。失礼ながらあなたの年齢《とし》や教育や学問で、そうきちん[#「きちん」に傍点]と片づけられる訳がありません。もしまたそんな意味でなくって、学問の力を借りずに、徹底的にどさりと納まりをつけたいなら、私のようなものの所へ来ても駄目《だめ》です。坊さんの所へでもいらっしゃい」
すると女が私の顔を見た。
「私は始めて先生を御見上げ申した時に、先生の心はそういう点で、普通の人以上に整《とと》のっていらっしゃるように思いました」
「そんなはずがありません」
「でも私にはそう見えました。内臓の位置までが調《ととの》っていらっしゃるとしか考えられませんでした」
「もし内臓がそれほど具合よく調節されているなら、こんなに始終《しじゅう》病気などはしません」
「私は病気にはなりません」とその時女は突然自分の事を云った。
「それはあなたが私より偉い証拠《しょうこ》です」と私も答えた。
女は蒲団《ふとん》を滑《すべ》り下りた。そうして、「どうぞ御身体《おからだ》を御大切《ごたいせつ》に」と云って帰って行った。
十九
私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、その実《じつ》小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、寂《さび》れ切《き》ってかつ淋《さむ》しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内《しゅびきうち》か朱引外か分らない辺鄙《へんぴ》な隅《すみ》の方にあったに違ないのである。
それでも内蔵造《くらづくり》の家《うち》が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上《あが》ると、右側に見える近江屋伝兵衛《おうみやでんべえ》という薬種屋《やくしゅや》などはその一つであった。それから坂を下《お》り切《き》った所に、間口の
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