ひと》にやろうとまで思ったのだから。――私の現下の経済的生活は、この十円のために、ほとんど目に立つほどの影響を蒙《こうむ》らないのだから」
「よく考えて見ましょう」といったK君はにやにや笑いながら帰って行った。

        十六

 宅《うち》の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈《か》って貰った事がある。
 平生は白い金巾《かなきん》の幕で、硝子戸《ガラスど》の奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立って、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
 亭主は私の入ってくるのを見ると、手に持った新聞紙を放《ほう》り出《だ》してすぐ挨拶《あいさつ》をした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私の後《うしろ》へ廻って、鋏《はさみ》をちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼は昔《むか》し寺町の郵便局の傍《そば》に店を持って、今と同じように、散髪を渡世《とせい》としていた事が解った。
「高田の旦那《だんな》などにもだいぶ御世話になりました」
 その高田というのは私の従兄《いとこ》なのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知ってるどころじゃございません。始終《しじゅう》徳《とく》、徳《とく》、って贔屓《ひいき》にして下すったもんです」
 彼の言葉|遣《づか》いはこういう職人にしてはむしろ丁寧《ていねい》な方であった。
「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚《びっくり》した調子で「へッ」と声を揚《あ》げた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつ頃《ごろ》御亡《おな》くなりになりました」
「なに、つい此間《こないだ》さ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
 彼はそれからこの死んだ従兄《いとこ》について、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日《きのう》の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。
「あのそら求友亭《きゅうゆうてい》の横町にいらしってね、……」と亭主はまた言葉を継《つ》ぎ足した。
「うん、あの二階のある家《うち》だろう」
「ええ御二
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