ちがし》の代りに煮豆を買って来て、竹の皮のまま双方から突っつき合った。
 大学を卒業すると間もなく彼は地方の中学に赴任した。私は彼のためにそれを残念に思った。しかし彼を知らない大学の先生には、それがむしろ当然と見えたかも知れない。彼自身は無論平気であった。それから何年かの後《のち》に、たしか三年の契約で、支那のある学校の教師に雇われて行ったが、任期が充《み》ちて帰るとすぐまた内地の中学校長になった。それも秋田から横手に遷《うつ》されて、今では樺太《かばふと》の校長をしているのである。
 去年上京したついでに久しぶりで私を訪《たず》ねてくれた時、取次のものから名刺を受取った私は、すぐその足で座敷へ行って、いつもの通り客より先に席に着いていた。すると廊下伝《ろうかづたい》に室《へや》の入口まで来た彼は、座蒲団《ざぶとん》の上にきちんと坐《すわ》っている私の姿を見るや否や、「いやに澄ましているな」と云った。
 その時|向《むこう》の言葉が終るか終らないうちに「うん」という返事がいつか私の口を滑《すべ》って出てしまった。どうして私の悪口《わるくち》を自分で肯定するようなこの挨拶《あいさつ》が、それほど自然に、それほど雑作《ぞうさ》なく、それほど拘泥《こだ》わらずに、するすると私の咽喉《のど》を滑《すべ》り越したものだろうか。私はその時透明な好い心持がした。

        十

 向い合って座を占めたOと私とは、何より先に互の顔を見返して、そこにまだ昔《むか》しのままの面影《おもかげ》が、懐《なつ》かしい夢の記念のように残っているのを認めた。しかしそれはあたかも古い心が新しい気分の中にぼんやり織り込まれていると同じ事で、薄暗く一面に霞《かす》んでいた。恐ろしい「時」の威力に抵抗して、再びもとの姿に返る事は、二人にとってもう不可能であった。二人は別れてから今会うまでの間に挟《はさ》まっている過去という不思議なものを顧《かえり》みない訳に行かなかった。
 Oは昔し林檎《りんご》のように赤い頬と、人一倍大きな丸い眼と、それから女に適したほどふっくりした輪廓《りんかく》に包まれた顔をもっていた。今見てもやはり赤い頬と丸い眼と、同じく骨張らない輪廓の持主ではあるが、それが昔しとはどこか違っている。
 私は彼に私の口髭《くちひげ》と揉《も》み上《あ》げを見せた。彼はまた私のために自分
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