したいていは自分一人で口を利《き》いていたので、私はむしろ木像のようにじっとしているだけであった。
やがて女の頬は熱《ほて》って赤くなった。白粉《おしろい》をつけていないせいか、その熱った頬の色が著るしく私の眼に着いた。俯向《うつむき》になっているので、たくさんある黒い髪の毛も自然私の注意を惹《ひ》く種になった。
七
女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛を極《きわ》めたものであった。彼女は私に向ってこんな質問をかけた。――
「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
私は返答に窮した。
「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」
私はどちらにでも書けると答えて、暗《あん》に女の気色《けしき》をうかがった。女はもっと判然した挨拶《あいさつ》を私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支《さしつかえ》ないでしょう。しかし美くしいものや気高《けだか》いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」
「先生はどちらを御択《おえら》びになりますか」
私はまた躊躇《ちゅうちょ》した。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖《こわ》くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻《ぬけがら》のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
私は女が今広い世間《せかい》の中にたった一人立って、一寸《いっすん》も身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。
私は服薬の時間を計るため、客の前も憚《はば》からず常に袂時計《たもとどけい》を座蒲団《ざぶとん》の傍《わき》に置く癖《くせ》をもっていた。
「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女は厭《いや》な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が更《ふ》けたから送って行って上げましょう」と云って
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