きな意識と冥合《めいごう》できよう。臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議を他人《ひと》に待つばかりである。
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迎火《むかいび》を焚《た》いて誰《たれ》待つ絽《ろ》の羽織《はおり》
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        十八

 ただ驚ろかれたのは身体《からだ》の変化である。騒動のあった明《あく》る朝、何かの必要に促《うな》がされて、肋《あばら》の左右に横たえた手を、顔の所まで持って来《き》ようとすると、急に持主でも変ったように、自分の腕ながらまるで動かなかった。人を煩《わず》らわす手数《てかず》を厭《いと》って、無理に肘《ひじ》を杖《つえ》として、手頸《てくび》から起しかけたはかけたが、わずか何寸かの距離を通して、宙に短かい弧線を描く努力と時間とは容易のものでなかった。ようやく浮き上った筋《きん》の力を利用して、高い方へ引くだけの精気に乏しいので、途中から断念して、再び元の位置にわが腕を落そうとすると、それがまた安くは落ちなかった。無論そのままにして心を放せば、自然の重みでもとに倒れるだけの事ではあるが、その倒れる時の激動が、いかに全身に響き渡るかと考えると、非常に恐ろしくなって、ついに思い切る勇気が出なかった。余はおろす事も上げる事も、また半途に支える事もできない腕を意識しつつそのやりどころに窮した。ようやく傍《はた》のものの気がついて、自分の手をわが手に添えて、無理のないように顔の所まで持って来てくれて、帰りにもまた二つ腕をいっしょにしてやっと床《とこ》の上まで戻した時には、どうしてこう自己が空虚になったものか、我ながらほとんど想像がつかなかった。後から考えて見て、あれは全く護謨風船《ゴムふうせん》に穴が開《あ》いて、その穴から空気が一度に走り出したため、風船の皮がたちまちしゅっという音と共に収縮したと一般の吐血だから、それでああ身体《からだ》に応《こた》えたのだろうと判断した。それにしても風船はただ縮《ちぢ》まるだけである。不幸にして余の皮は血液のほかに大きな長い骨をたくさんに包んでいた。その骨が――
 余は生れてより以来この時ほど吾骨の硬さを自覚した事がない。その朝眼が覚《さ》めた時の第一の記憶は、実にわが全身に満ち渡る骨の痛みの声であった。そうしてその痛みが、宵《よい》に、酒を被《こうぶ》った勢《いきおい》で、多数を相手に劇《はげ》しい喧嘩《けんか》を挑《いど》んだ末、さんざんに打ち据《す》えられて、手も足も利《き》かなくなった時のごとくに吾を鈍《にぶ》く叩《たた》きこなしていた。砧《きぬた》に擣《う》たれた布は、こうもあろうかとまで考えた。それほど正体なくきめつけられ了《おわ》った状態を適当に形容するには、ぶちのめす[#「ぶちのめす」に傍点]と云う下等社会で用いる言葉が、ただ一つあるばかりである。少しでも身体を動かそうとすると、関節《ふしぶし》がみしみしと鳴った。
 昨日《きのう》まで狭い布団《ふとん》に劃《かく》された余の天地は、急にまた狭くなった。その布団のうちの一部分よりほかに出る能力を失った今の余には、昨日《きのう》まで狭く感ぜられた布団がさらに大きく見えた。余の世界と接触する点は、ここに至ってただ肩と背中と細長く伸べた足の裏側に過ぎなくなった。――頭は無論枕に着いていた。
 これほどに切りつめられた世界に住む事すら、昨夕《ゆうべ》は許されそうに見えなかったのにと、傍《はた》のものは心の中《うち》で余のために観じてくれたろう。何事も弁《わきま》えぬ余にさえそれが憐《あわ》れであった。ただ身の布団に触れる所のみがわが世界であるだけに、そうしてその触れる所が少しも変らないために、我と世界との関係は、非常に単純であった。全くスタチック(静《せい》)であった。したがって安全であった。綿《わた》を敷いた棺《かん》の中に長く寝て、われ棺を出でず、人棺を襲《おそ》わざる亡者《もうじゃ》の気分は――もし亡者に気分が有り得るならば、――この時の余のそれと余りかけ隔《へだ》ってはいなかったろう。
 しばらくすると、頭が麻痺《しび》れ始めた。腰の骨が骨だけになって板の上に載《の》せられているような気がした。足が重くなった。かくして社会的の危険から安全に保証された余|一人《いちにん》の狭い天地にもまた相応の苦しみができた。そうしてその苦痛を逃《のが》れるべく余は一寸《いっすん》のほかにさえ出る能力を持たなかった。枕元にどんな人がどうして坐《すわ》っているか、まるで気がつかなかった。余を看護するために、余の視線の届かぬ傍《かたわ》らを占めた人々の姿は、余に取って神のそれと一般であった。
 余はこの安らかながら痛み多き小世界にじっと仰向《あおむけ》に寝たまま、身の及ばざるところに時々眼を走らした。そ
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