奥さんの所からかけたという説明が書いてあった。茅《ち》ケ崎《さき》にいる子供の安否についても一方《ひとかた》ならぬ心配をしたものらしかった。十間坂下《じっけんざかした》という所は水害の恐れがないけれども、もし万一の事があれば、郵便局から電報で宅まで知らせて貰うはずになっていると、余に安心させるため、わざわざ断ってあった。そのほか市中たいていの平地《ひらち》は水害を受けて、現に江戸川通などは矢来《やらい》の交番の少し下まで浸《つか》ったため、舟に乗って往来《ゆきき》をしているという報知も書き込んであった。しかしその頃は後《おく》れながらも新聞が着いたから、一般の模様は妻の便りがなくてもほぼ分っていた。余の心を動かすべき現象は漠然《ばくぜん》たる大社会の雨や水やと戦う有様にあると云うよりも、むしろ己《おのれ》だけに密接の関係ある個人の消息にあった。そうしてその個人の二人までに、この雨と水が命の間際《まぎわ》まで祟《たた》った顛末《てんまつ》を、余はこの書面の中《うち》に見出したのである。
 一つは横浜に嫁《とつ》いだ妻の妹の運命に関した報知であった。手紙にはこう書いてある。
「……梅子事|末《すえ》の弟を伴《つ》れて塔《とう》の沢《さわ》の福住《ふくずみ》へ参り居り候《そうろう》処、水害のため福住は浪《なみ》に押し流され、浴客《よくかく》六十名のうち十五名|行方不明《ゆくえふめい》との事にて、生死の程も分らず、如何《いかん》とも致し方なく、横浜へは汽車不通にて参る事|叶《かな》わず、電話は申込者多数にて一日を待たねば通じ不申《もうさず》……」
 後《あと》には、いろいろ込み入った工面《くめん》をして電話をかけた手続が書いてあって、その末に会社の小使とかが徒歩で箱根まで探しに行ったあげく、幽霊のように哀《あわ》れな姿をした彼女《かのおんな》を伴れて戻った模様が述べてあった。余はそこまで読んで来て、つい二三日前宿の下女から、ある所で水が出て家が流されて、その家の宝物がまたある所から掘り出されたという昔話のような物語を聞きながら、その裏には自分と利害の糸を絡《から》み合《あわ》せなければならない恐ろしい事実が潜《ひそ》んでいるとも気がつかずに、尾頭《おかしら》もない夢とのみ打ち興じてすましていた自分の無智に驚いた。またその無智を人間に強《し》いる運命の威力を恐れた。
 もう一つ余の心を躍《おど》らしたのは、草平君に関する報知《しらせ》であった。妻《さい》が本郷の親類で用を足した帰りとかに、水見舞のつもりで柳町《やなぎちょう》の低い町から草平君の住んでいる通りまで来て、ここらだがと思いながら、表から奥を覗《のぞ》いて見ると、かねて見覚《みおぼえ》のある家がくしゃりと潰《つぶ》れていたそうである。
「家《うち》の人達は無事ですか、どこへ行きましたかと聞いたら、薪屋《まきや》の御上《おかみ》さんが、昨晩の十二時頃に崖《がけ》が崩《くず》れましたが、幸いにどなたも御怪我《おけが》はございません。ひとまず柳町のこういう所へ御引移りになりましたと、教えてくれましたから、柳町へ来て見ると、まだ水の引き切らない床下《ゆかした》のぴたぴたに濡《ぬ》れた貸家に畳建具《たたみたてぐ》も何も入れずに、荷物だけ運んでありました。実に何と云って好いか憐《あわ》れな姿でお種《たね》さんが、私《わたし》の顔を見ると馳《か》け出して来ました。……晩の御飯を拵《こしら》える事もできないだろうと思って、御寿司《おすし》を誂《あつら》えて御夕飯の代りに上げました……」
 草平君は平生《ふだん》から崖崩れを恐れて、できるだけ表へ寄って寝るとか聞いていたが、家の潰《つぶ》れた時には、外《ほか》のものがまるで無難であったにもかかわらず、自分だけは少し顔へ怪我《けが》をしたそうである。その怪我の事も手紙の中《うち》に書いてあった。余はそれを読んで怪我だけでまず仕合せだと思った。
 家を流し崖を崩す凄《すさ》まじい雨と水の中に都のものは幾万となく恐るべき叫び声を揚《あ》げた。同じ雨と同じ水の中に余と関係の深い二人は身をもって免《まぬか》れた。そうして余は毫《ごう》も二人の災難を知らずに、遠い温泉《でゆ》の村に雲と煙《けぶり》と、雨の糸を眺め暮していた。そうして二人の安全であるという報知《しらせ》が着いたときは、余の病《やまい》がしだいしだいに危険の方へ進んで行った時であった。
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風に聞け何《いず》れか先に散る木《こ》の葉《は》
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        十二

 つづく雨の或《あ》る宵《よい》に、すこし病《やまい》の閑《ひま》を偸《ぬす》んで、下の風呂場へ降りて見ると、半切《はんきれ》を三尺ばかりの長《ながさ》に切って、それを細長く竪《たて》に貼
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