。葉の數を勘定して見たら、凡《すべ》てゞやつと九枚あつた。夫《それ》に周圍が白いのと、表裝の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲つて來てならない。
 子規は此|簡單《かんたん》な草花を描《ゑが》くために、非常な努力を惜しまなかつた樣に見える。僅か三莖《みくき》の花に、少くとも五六時間の手間《てま》を掛けて、何處から何處迄丹念に塗り上げてゐる。是程の骨折は、たゞに病中の根氣仕事として餘程の決心を要するのみならず、如何にも無雜作に俳句や歌を作り上げる彼の性情から云つても、明かな矛盾である。思ふに畫と云ふ事に初心《しよしん》な彼は當時繪畫に於ける寫生の必要を不折《ふせつ》などから聞いて、それを一草一花の上にも實行しやうと企《くはだ》てながら、彼が俳句の上で既に悟入した同一方法を、此方面に向つて適用する事を忘れたか、又は適用する腕がなかつたのであらう。
 東菊《あづまぎく》によつて代表された子規の畫は、拙《まづ》くて且《かつ》眞面目である。才を呵《か》して直ちに章をなす彼の文筆が、繪の具皿に浸《ひたる》ると同時に、忽ち堅くなつて、穂先の運行がねつとり竦《すく》んで仕舞つたのかと思ふと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子《きよし》が來て此幅《このふく》を見た時、正岡の繪は旨いぢやありませんかと云つたことがある。余は其時、だつてあれ丈《だけ》の單純な平凡な特色を出すのに、あの位時間と勞力を費さなければならなかつたかと思ふと、何だか正岡の頭と手が、入らざる働きを餘儀なくされた觀がある所に、隱し切れない拙《せつ》が溢《あふ》れてゐると思ふと答へた。馬鹿律氣《ばかりちぎ》なものに厭味《いやみ》も利《き》いた風もあり樣はない。其處に重厚な好所《かうしよ》があるとすれば、子規の畫は正に働きのない愚直ものゝ旨さである。けれども一線一畫の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、咄嗟《とつさ》に辨ずる手際がない爲めに、已《やむ》を得《え》ず省略の捷徑《せふけい》を棄てゝ、几帳面な塗抹主義を根氣に實行したとすれば、拙《せつ》の一字は何うしても免れ難い。
 子規は人間として、又文學者として、最も「拙《せつ》」の缺乏した男であつた。永年《ながねん》彼と交際をした何《ど》の月にも、何《ど》の日にも、余は未だ曾て彼の拙《せつ》を笑ひ得るの機會を捉《とら》へ得《え》たた試《ためし》がない。又彼
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング