凾ネのが、あらわれて来るよ。日本《にほん》じゃ今女のほうが余っているんだから。風邪なんか引いて熱を出したってはじまらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。じつはぼくにもいろいろあるんだが、ぼくのほうであんまりうるさいから、御用で長崎へ出張すると言ってね」
「なんだ、それは」
「なんだって、ぼくの関係した女さ」
 三四郎は驚いた。
「なに、女だって、君なんぞのかつて近寄ったことのない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌《ばいきん》の試験に出張するから当分だめだって断わっちまった。ところがその女が林檎《りんご》を持って停車場《ステーション》まで送りに行くと言いだしたんで、ぼくは弱ったね」
 三四郎はますます驚いた。驚きながら聞いた。
「それで、どうした」
「どうしたか知らない。林檎を持って、停車場に待っていたんだろう」
「ひどい男だ。よく、そんな悪い事ができるね」
「悪い事で、かあいそうな事だとは知ってるけれども、しかたがない。はじめから次第次第に、そこまで運命に持っていかれるんだから。じつはとうのさきからぼくが医科の学生になっていたんだからなあ」
「なんで、そんなよけいな嘘《うそ》をつくんだ」
「そりゃ、またそれぞれの事情のあることなのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼まれて困ったこともある」
 三四郎はおかしくなった。
「その時は舌を見て、胸をたたいて、いいかげんにごまかしたが、その次に病院へ行って、見てもらいたいがいいかと聞かれたには閉口した」
 三四郎はとうとう笑いだした。与次郎は、
「そういうこともたくさんあるから、まあ安心するがよかろう」と言った。なんの事だかわからない。しかし愉快になった。
 与次郎はその時はじめて、美禰子に関する不思議を説明した。与次郎の言うところによると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それだけならばいいが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのだそうだ。
 三四郎も少しばかにされたような気がした。しかしよし子の結婚だけはたしかである。現に自分がその話をそばで聞いていた。ことによるとその話を美禰子のと取り違えたのかもしれない。けれども美禰子の結婚も、まったく嘘ではないらしい。三四郎ははっきりしたところが知りたくなった。ついでだから、与次郎に教えてくれと頼んだ。与次郎はわけなく承知した。よし子を見舞いに来るようにしてやるから、じかに聞いてみろという。うまい事を考えた。
「だから、薬を飲んで、待っていなくってはいけない」
「病気が直っても、寝て待っている」
 二人は笑って別れた。帰りがけに与次郎が、近所の医者に来てもらう手続きをした。
 晩になって、医者が来た。三四郎は自分で医者を迎えた覚えがないんだから、はじめは少し狼狽《ろうばい》した。そのうち脈を取られたのでようやく気がついた。年の若い丁寧な男である。三四郎は代診と鑑定した。五分ののち病症はインフルエンザときまった。今夜|頓服《とんぷく》を飲んで、なるべく風にあたらないようにしろという注意である。
 翌日目がさめると、頭がだいぶ軽くなっている。寝ていれば、ほとんど常体に近い。ただ枕を離れると、ふらふらする。下女が来て、だいぶ部屋の中が熱臭いと言った。三四郎は飯も食わずに、仰向けに天井をながめていた。時々うとうと眠くなる。明らかに熱と疲れとにとらわれたありさまである。三四郎は、とらわれたまま、逆らわずに、寝たりさめたりするあいだに、自然に従う一種の快感を得た。病症が軽いからだと思った。
 四時間、五時間とたつうちに、そろそろ退屈を感じだした。しきりに寝返りを打つ。外はいい天気である。障子にあたる日が、次第に影を移してゆく。雀《すずめ》が鳴く。三四郎はきょうも与次郎が遊びに来てくれればいいと思った。
 ところへ下女が障子をあけて、女のお客様だと言う。よし子が、そう早く来ようとは待ち設けなかった。与次郎だけに敏捷《びんしょう》な働きをした。寝たまま、あけ放しの入口に目をつけていると、やがて高い姿が敷居の上へ現われた。きょうは紫の袴《はかま》をはいている。足は両方とも廊下にある。ちょっとはいるのを躊躇《ちゅうちょ》した様子が見える。三四郎は肩を床から上げて、「いらっしゃい」と言った。
 よし子は障子をたてて、枕元《まくらもと》へすわった。六畳の座敷が、取り乱してあるうえに、けさは掃除《そうじ》をしないから、なお狭苦しい。女は、三四郎に、
「寝ていらっしゃい」と言った。三四郎はまた頭を枕へつけた。自分だけは穏やかである。
「臭くはないですか」と聞いた。
「ええ、少し」と言ったが、べつだん臭い顔もしなかった。「熱がおありなの。なんなんでしょう、御病気は。お医者はいらしって」
「医者はゆうべ来ました。インフルエンザだそうです」
「けさ早く佐々木さんがおいでになって、小川が病気だから見舞いに行ってやってください。何病だかわからないが、なんでも軽くはないようだっておっしゃるものだから、私も美禰子さんもびっくりしたの」
 与次郎がまた少しほらを吹いた。悪く言えば、よし子を釣り出したようなものである。三四郎は人がいいから、気の毒でならない。「どうもありがとう」と言って寝ている。よし子は風呂敷包《ふろしきづつ》みの中から、蜜柑《みかん》の籠《かご》を出した。
「美禰子さんの御注意があったから買ってきました」と正直な事を言う。どっちのお見舞《みやげ》だかわからない。三四郎はよし子に対して礼を述べておいた。
「美禰子さんもあがるはずですが、このごろ少し忙しいものですから――どうぞよろしくって……」
「何か特別に忙しいことができたのですか」
「ええ。できたの」と言った。大きな黒い目が、枕についた三四郎の顔の上に落ちている。三四郎は下から、よし子の青白い額を見上げた。はじめてこの女に病院で会った昔を思い出した。今でもものうげに見える。同時に快活である。頼りになるべきすべての慰謝を三四郎の枕の上にもたらしてきた。
「蜜柑をむいてあげましょうか」
 女は青い葉の間から、果物《くだもの》を取り出した。渇《かわ》いた人は、香《か》にほとばしる甘い露を、したたかに飲んだ。
「おいしいでしょう。美禰子さんのお見舞《みやげ》よ」
「もうたくさん」
 女は袂《たもと》から白いハンケチを出して手をふいた。
「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」
「あれぎりです」
「美禰子さんにも縁談の口があるそうじゃありませんか」
「ええ、もうまとまりました」
「だれですか、さきは」
「私をもらうと言ったかたなの。ほほほおかしいでしょう。美禰子さんのお兄《あに》いさんのお友だちよ。私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。美禰子さんが行ってしまうと、もうご厄介《やっかい》になってるわけにゆかないから」
「あなたはお嫁には行かないんですか」
「行きたい所がありさえすれば行きますわ」
 女はこう言い捨てて心持ちよく笑った。まだ行きたい所がないにきまっている。
 三四郎はその日から四日《よっか》ほど床を離れなかった。五日目《いつかめ》にこわごわながら湯にはいって、鏡を見た。亡者《もうじゃ》の相がある。思い切って床屋へ行った。そのあくる日は日曜である。
 朝飯後、シャツを重ねて、外套《がいとう》を着て、寒くないようにして美禰子の家へ行った。玄関によし子が立って、今|沓脱《くつぬぎ》へ降りようとしている。今兄の所へ行くところだと言う。美禰子はいない。三四郎はいっしょに表へ出た。
「もうすっかりいいんですか」
「ありがとう。もう直りました。――里見さんはどこへ行ったんですか」
「にいさん?」
「いいえ、美禰子さんです」
「美禰子さんは会堂《チャーチ》」
 美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた。どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。三四郎はまったく耶蘇教《やそきょう》に縁のない男である。会堂の中はのぞいて見たこともない。前へ立って、建物をながめた。説教の掲示を読んだ。鉄柵《てっさく》の所を行ったり来たりした。ある時は寄りかかってみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つつもりである。
 やがて唱歌の声が聞こえた。賛美歌《さんびか》というものだろうと考えた。締め切った高い窓のうちのでき事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌はやんだ。風が吹く。三四郎は外套の襟《えり》を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。
 かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端《たばた》の小川の縁《ふち》にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。雲が羊の形をしている。
 忽然《こつぜん》として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世《うきよ》へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。縞《しま》の吾妻《あずま》コートを着て、うつ向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いとみえて、肩をすぼめて、両手を前で重ねて、できるだけ外界との交渉を少なくしている。美禰子はこのすべてにあがらざる態度を門ぎわまで持続した。その時、往来の忙しさに、はじめて気がついたように顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の目に映った。二人は説教の掲示のある所で、互いに近寄った。
「どうなすって」
「今お宅までちょっと出たところです」
「そう、じゃいらっしゃい」
 女はなかば歩をめぐらしかけた。相変らず低い下駄《げた》をはいている。男はわざと会堂の垣《かき》に身を寄せた。
「ここでお目にかかればそれでよい。さっきから、あなたの出て来るのを待っていた」
「おはいりになればよいのに。寒かったでしょう」
「寒かった」
「お風邪はもうよいの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色がよくないようね」
 男は返事をしずに、外套の隠袋《かくし》から半紙に包んだものを出した。
「拝借した金です。ながながありがとう。返そう返そうと思って、ついおそくなった」
 美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包みを受け取った。しかし手に持ったなり、しまわずにながめている。三四郎もそれをながめている。言葉が少しのあいだ切れた。やがて、美禰子が言った。
「あなた、御不自由じゃなくって」
「いいえ、このあいだからそのつもりで国から取り寄せておいたのだから、どうか取ってください」
「そう。じゃいただいておきましょう」
 女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い香《かおり》がぷんとする。
「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎《びん》。四丁目の夕暮。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。空には高い日が明らかにかかる。
「結婚なさるそうですね」
 美禰子は白いハンケチを袂《たもと》へ落とした。
「御存じなの」と言いながら、二重瞼《ふたえまぶた》を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ眉《まゆ》だけははっきりおちついている。三四郎の舌が上顎《うわあご》へひっついてしまった。
 女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。
「我はわが愆《とが》を知る。わが罪は常にわが前にあり」
 聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。下宿へ帰ったら母からの電報が来ていた。あけて見ると、いつ立つとある。

       一三

 原口さんの絵はでき上がった。丹青会はこれを
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