ス松がある。その先にも松がある。松がたくさんある。三四郎は好い所だと思った。多くの松を通り越して左へ折れると、生垣《いけがき》にきれいな門がある。はたして原口という標札が出ていた。その標札は木理《もくめ》の込んだ黒っぽい板に、緑の油で名前を派手《はで》に書いたものである。字だか模様だかわからないくらい凝っている。門から玄関まではからりとしてなんにもない。左右に芝が植えてある。
 玄関には美禰子の下駄《げた》がそろえてあった。鼻緒の二本が右左《みぎひだり》で色が違う。それでよく覚えている。今仕事中だが、よければ上がれと言う小女《こおんな》の取次ぎについて、画室へはいった。広い部屋《へや》である。細長く南北《みなみきた》にのびた床の上は、画家らしく、取り乱れている。まず一部分には絨毯《じゅうたん》が敷いてある。それが部屋の大きさに比べると、まるで釣り合いが取れないから、敷物として敷いたというよりは、色のいい、模様の雅な織物としてほうり出したように見える。離れて向こうに置いた大きな虎《とら》の皮もそのとおり、すわるための、設けの座とは受け取れない。絨毯とは不調和な位置に筋《すじ》かいに尾を長くひいている。砂を練り固めたような大きな甕《かめ》がある。その中から矢が二本出ている。鼠色《ねずみいろ》の羽根と羽根の間が金箔《きんぱく》で強く光る。そのそばに鎧《よろい》もあった。三四郎は卯《う》の花縅《はなおど》しというのだろうと思った。向こう側のすみにぱっと目を射るものがある。紫の裾模様の小袖《こそで》に金糸《きんし》の刺繍《ぬい》が見える。袖から袖へ幔幕《まんまく》の綱《つな》を通して、虫干の時のように釣るした。袖は丸くて短かい。これが元禄《げんろく》かと三四郎も気がついた。そのほかには絵がたくさんある。壁にかけたのばかりでも大小合わせるとよほどになる。額縁《がくぶち》をつけない下絵というようなものは、重ねて巻いた端《はし》が、巻きくずれて、小口《こぐち》をしだらなくあらわした。
 描かれつつある人の肖像は、この彩色《いろどり》の目を乱す間にある。描かれつつある人は、突き当りの正面に団扇《うちわ》をかざして立った。描く男は丸い背をぐるりと返して、パレットを持ったまま、三四郎に向かった。口に太いパイプをくわえている。
「やって来たね」と言ってパイプを口から取って、小さい丸テーブルの上に置いた。マッチと灰皿《はいざら》がのっている。椅子《いす》もある。
「かけたまえ。――あれだ」と言って、かきかけた画布《カンバス》の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はただ、
「なるほど大きなものですな」と言った。原口さんは、耳にも留めないふうで、
「うん、なかなか」とひとりごとのように、髪の毛と、背景の境の所を塗りはじめた。三四郎はこの時ようやく美禰子の方を見た。すると女のかざした団扇の陰で、白い歯がかすかに光った。
 それから二、三分はまったく静かになった。部屋は暖炉《だんろ》で暖めてある。きょうは外面《そと》でも、そう寒くはない。風は死に尽した。枯れた木が音なく冬の日に包まれて立っている。三四郎は画室へ導かれた時、霞《かすみ》の中へはいったような気がした。丸テーブルに肱《ひじ》を持たして、この静かさの夜にまさる境に、はばかりなき精神《こころ》をおぼれしめた。この静かさのうちに、美禰子がいる。美禰子の影が次第にでき上がりつつある。肥《ふと》った画工の画筆《ブラッシ》だけが動く。それも目に動くだけで、耳には静かである。肥った画工も動くことがある。しかし足音はしない。
 静かなものに封じ込められた美禰子はまったく動かない。団扇をかざして立った姿そのままがすでに絵である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写しているのではない。不可思議に奥行きのある絵から、精出して、その奥行きだけを落として、普通の絵に美禰子を描き直しているのである。にもかかわらず第二の美禰子は、この静かさのうちに、次第と第一に近づいてくる。三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。もう少しで双方《そうほう》がぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。原口さんの画筆《ブラッシ》はそれより先には進めない。三四郎はそこまでついて行って、気がついて、ふと美禰子を見た。美禰子は依然として動かずにいる。三四郎の頭はこの静かな空気のうちで覚えず動いていた。酔った心持ちである。すると突然原口さんが笑いだした。
「また苦しくなったようですね」
 女はなんにも言わずに、すぐ姿勢をくずして、そばに置いた安楽椅子へ落ちるようにとんと腰をおろした。その時白い歯がまた光った。そうして動く時の袖とともに三四郎を見た。その目は流星のように三四郎の眉間《みけん》を通り越していった。
 原口さんは丸テーブルのそばまで来て、三四郎に、
「どうです」と言いながら、マッチをすってさっきのパイプに火をつけて、再び口にくわえた。大きな木の雁首《がんくび》を指でおさえて、二吹きばかり濃い煙を髭の中から出したが、やがてまた丸い背中を向けて絵に近づいた。かってなところを自由に塗っている。
 絵はむろん仕上がっていないものだろう。けれどもどこもかしこもまんべんなく絵の具が塗ってあるから、素人《しろうと》の三四郎が見ると、なかなかりっぱである。うまいかまずいかむろんわからない。技巧の批評のできない三四郎には、ただ技巧のもたらす感じだけがある。それすら、経験がないから、すこぶる正鵠《せいこう》を失しているらしい。芸術の影響に全然無頓着な人間でないとみずからを証拠立てるだけでも三四郎は風流人である。
 三四郎が見ると、この絵はいったいにぱっとしている。なんだかいちめんに粉《こ》が吹いて、光沢《つや》のない日光《ひ》にあたったように思われる。影の所でも黒くはない。むしろ薄い紫が射している。三四郎はこの絵を見て、なんとなく軽快な感じがした。浮いた調子は猪牙船《ちょきぶね》に乗った心持ちがある。それでもどこかおちついている。けんのんでない。苦《にが》ったところ、渋ったところ、毒々しいところはむろんない。三四郎は原口さんらしい絵だと思った。すると原口さんは無造作《むぞうさ》に画筆を使いながら、こんなことを言う。
「小川さんおもしろい話がある。ぼくの知った男にね、細君がいやになって離縁を請求した者がある。ところが細君が承知をしないで、私は縁あって、この家《うち》へかたづいたものですから、たといあなたがおいやでも私はけっして出てまいりません」
 原口さんはそこでちょっと絵を離れて、画筆の結果をながめていたが、今度は、美禰子に向かって、
「里見さん。あなたが単衣《ひとえもの》を着てくれないものだから、着物がかきにくくって困る。まるでいいかげんにやるんだから、少し大胆《だいたん》すぎますね」
「お気の毒さま」と美禰子が言った。
 原口さんは返事もせずにまた画面へ近寄った。「それでね、細君のお尻《しり》が離縁するにはあまり重くあったものだから、友人が細君に向かって、こう言ったんだとさ。出るのがいやなら、出ないでもいい。いつまでも家にいるがいい。その代りおれのほうが出るから。――里見さんちょっと立ってみてください。団扇はどうでもいい。ただ立てば。そう。ありがとう。――細君が、私が家におっても、あなたが出ておしまいになれば、後が困るじゃありませんかと言うと、なにかまわないさ、お前はかってに入夫でもしたらよかろうと答えたんだって」
「それから、どうなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思ったものか、まだあとをつけた。
「どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。広田先生を見たまえ、野々宮さんを見たまえ、里見恭助君を見たまえ、ついでにぼくを見たまえ。みんな結婚をしていない。女が偉くなると、こういう独身ものがたくさんできてくる。だから社会の原則は、独身ものが、できえない程度内において、女が偉くならなくっちゃだめだね」
「でも兄は近々《きんきん》結婚いたしますよ」
「おや、そうですか。するとあなたはどうなります」
「存じません」
 三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑った。原口さんだけは絵に向いている。「存じません。存じません――じゃ」と画筆《ブラッシ》を動かした。
 三四郎はこの機会を利用して、丸テーブルの側を離れて、美禰子の傍へ近寄った。美禰子は椅子の背に、油気《あぶらけ》のない頭を、無造作に持たせて、疲れた人の、身繕いに心なきなげやりの姿である。あからさまに襦袢《じゅばん》の襟《えり》から咽喉首《のどくび》が出ている。椅子には脱ぎ捨てた羽織をかけた。廂髪《ひさしがみ》の上にきれいな裏が見える。
 三四郎は懐に三十円入れている。この三十円が二人の間にある、説明しにくいものを代表している。――と三四郎は信じた。返そうと思って、返さなかったのもこれがためである。思いきって、今返そうとするのもこれがためである。返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、いっそう近づいて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている。
「里見さん」と言った。
「なに」と答えた。仰向いて下から三四郎を見た。顔をもとのごとくにおちつけている。目だけは動いた。それも三四郎の真正面で穏やかにとまった。三四郎は女を多少疲れていると判じた。
「ちょうどついでだから、ここで返しましょう」と言いながら、ボタンを一つはずして、内懐《うちぶところ》へ手を入れた。
 女はまた、
「なに」と繰り返した。もとのとおり、刺激のない調子である。内懐へ手を入れながら、三四郎はどうしようと考えた。やがて思いきった。
「このあいだの金です」
「今くだすってもしかたがないわ」
 女は下から見上げたままである。手も出さない。からだも動かさない。顔も元のところにおちつけている。男は女の返事さえよくは解《げ》しかねた。その時、
「もう少しだから、どうです」と言う声がうしろで聞こえた。見ると、原口さんがこっちを向いて立っている。画筆《ブラッシ》を指の股《また》にはさんだまま、三角に刈り込んだ髯《ひげ》の先を引っ張って笑った。美禰子は両手を椅子の肘にかけて、腰をおろしたなり、頭と背をまっすぐにのばした。三四郎は小さな声で、
「まだよほどかかりますか」と聞いた。
「もう一時間ばかり」と美禰子も小さな声で答えた。三四郎はまた丸テーブルに帰った。女はもう描かるべき姿勢を取った。原口さんはまたパイプをつけた。画筆はまた動きだす。背を向けながら、原口さんがこう言った。
「小川さん。里見さんの目を見てごらん」
 三四郎は言われたとおりにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いてガラス越しに庭をながめている。
「いけない。横を向いてしまっちゃ、いけない。今かきだしたばかりだのに」
「なぜよけいな事をおっしゃる」と女は正面に帰った。原口さんは弁解をする。
「ひやかしたんじゃない。小川さんに話す事があったんです」
「何を」
「これから話すから、まあ元のとおりの姿勢に復してください。そう。もう少し肱を前へ出して。それで小川さん、ぼくの描いた目が、実物の表情どおりできているかね」
「どうもよくわからんですが。いったいこうやって、毎日毎日描いているのに、描かれる人の目の表情がいつも変らずにいるものでしょうか」
「それは変るだろう。本人が変るばかりじゃない、画工《えかき》のほうの気分も毎日変るんだから、本当を言うと、肖像画が何枚でもできあがらなくっちゃならないわけだが、そうはいかない。またたった一枚でかなりまとまったものができるから不思議だ。なぜといって見たまえ……」
 原口さんはこのあいだしじゅう筆を使っている。美禰子の方も見
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