sって待っていますから」
「ありがとう」
「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。
 女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向《ひなた》へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成《いっきかせい》に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落《しゃらく》な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿《からざお》のようである。ここにもベニスが一枚ある。
「これもベニスですね」と女が寄って来た。
「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。
「さっき何を言ったんですか」
 女は「さっき?」と聞き返した。
「さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」
 女はまたまっ白な歯をあらわした。けれどもなんとも言わない。
「用でなければ聞かなくってもいいです」
「用じゃないのよ」
 三四郎はまだ変な顔をしている。曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人はきわめて少ない。別室のうちには、ただ男女《なんにょ》二人の影があるのみである。女は絵を離れて、三四郎の真正面に立った。
「野々宮さん。ね、ね」
「野々宮さん……」
「わかったでしょう」
 美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。
「野々宮さんを愚弄《ぐろう》したのですか」
「なんで?」
 女の語気はまったく無邪気である。三四郎は忽然《こつぜん》として、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。
「あなたを愚弄したんじゃないのよ」
 三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。
「それでいいです」
「なぜ悪いの?」
「だからいいです」
 女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子《ひょうし》に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。
「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。
「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。下足《げそく》を受け取って、出ると戸外は雨だ。
「精養軒へ行きますか」
 美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。
「あの木の陰へはいりましょう」
 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。
「悪くって? さっきのこと」
「いいです」
「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
 女は瞳《ひとみ》を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟《ひっきょう》あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼《ふたえまぶた》の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、
「だから、いいです」と答えた。
 雨はだんだん濃くなった。雫《しずく》の落ちない場所はわずかしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、
「さっきのお金をお使いなさい」と言った。
「借りましょう。要《い》るだけ」と答えた。
「みんな、お使いなさい」と言った。

       九

 与次郎が勧めるので、三四郎はとうとう精養軒の会へ出た。その時三四郎は黒い紬《つむぎ》の羽織を着た。この羽織は、三輪田のお光さんのおっかさんが織ってくれたのを、紋付《もんつき》に染めて、お光さんが縫い上げたものだと、母の手紙に長い説明がある。小包みが届いた時、いちおう着てみて、おもしろくないから、戸棚《とだな》へ入れておいた。それを与次郎が、もったいないからぜひ着ろ着ろと言う。三四郎が着なければ、自分が持っていって着そうな勢いであったから、つい着る気になった。着てみると悪くはないようだ。
 三四郎はこのいでたちで、与次郎と二人《ふたり》で精養軒の玄関に立っていた。与次郎の説によると、お客はこうして迎えべきものだそうだ。三四郎はそんなこととは知らなかった。第一自分がお客のつもりでいた。こうなると、紬の羽織ではなんだか安っぽい受け付けの気がする。制服を着てくればよかったと思った。そのうち会員がだんだん来る。与次郎は来る人をつらまえてきっとなんとか話をする。ことごとく旧知のようにあしらっている。お客が帽子と外套《がいとう》を給仕に渡して、広い梯子段《はしごだん》の横を、暗い廊下の方へ折れると、三四郎に向かって、今のは誰某《だれそれがし》だと教えてくれる。三四郎はおかげで知名な人の顔をだいぶ覚えた。
 そのうちお客はほぼ集まった。約三十人足らずである。広田先生もいる。野々宮さんもいる。――これは理学者だけれども、絵や文学が好きだからというので、原口さんが、むりに引っ張り出したのだそうだ。原口さんはむろんいる。いちばんさきへ来て、世話を焼いたり、愛嬌《あいきょう》を振りまいたり、フランス式の髯《ひげ》をつまんでみたり、万事忙しそうである。
 やがて着席となった。めいめいかってな所へすわる。譲る者もなければ、争う者もない。そのうちでも広田先生はのろいにも似合わずいちばんに腰をおろしてしまった。ただ与次郎と三四郎だけがいっしょになって、入口に近く座を占めた。その他はことごとく偶然の向かい合わせ、隣同志であった。
 野々宮さんと広田先生のあいだに縞《しま》の羽織を着た批評家がすわった。向こうには庄司《しょうじ》という博士が座に着いた。これは与次郎のいわゆる文科で有力な教授である。フロックを着た品格のある男であった。髪を普通の倍以上長くしている。それが電燈の光で、黒く渦《うず》をまいて見える。広田先生の坊主頭《ぼうずあたま》と比べるとだいぶ相違がある。原口さんはだいぶ離れて席を取った。あちらの角《かど》だから、遠く三四郎と真向かいになる。折襟《おりえり》に、幅の広い黒襦子《くろじゅす》を結んださきがぱっと開いて胸いっぱいになっている。与次郎が、フランスの画工《アーチスト》は、みんなああいう襟飾りを着けるものだと教えてくれた。三四郎は肉汁《ソップ》を吸いながら、まるで兵児帯《へこおび》の結び目のようだと考えた。そのうち談話がだんだん始まった。与次郎はビールを飲む。いつものように口をきかない。さすがの男もきょうは少々|謹《つつし》んでいるとみえる。三四郎が、小さな声で、
「ちと、ダーターファブラをやらないか」と言うと、「きょうはいけない」と答えたが、すぐ横を向いて、隣の男と話を始めた。あなたの、あの論文を拝見して、大いに利益を得ましたとかなんとか礼を述べている。ところがその論文は、彼が自分の前で、さかんに罵倒《ばとう》したものだから、三四郎にはすこぶる不思議の思いがある。与次郎はまたこっちを向いた。
「その羽織はなかなかりっぱだ。よく似合う」と白い紋をことさら注意してながめている。その時向こうの端《はじ》から、原口さんが、野々宮に話しかけた。元来が大きな声の人だから、遠くで応対するにはつごうがいい。今まで向かい合わせに言葉をかわしていた広田先生と庄司という教授は、二人の応答を途中でさえぎることを恐れて、談話をやめた。その他の人もみんな黙った。会の中心点がはじめてできあがった。
「野々宮さん光線の圧力の試験はもう済みましたか」
「いや、まだなかなかだ」
「ずいぶん手数《てすう》がかかるもんだね。我々の職業も根気仕事だが、君のほうはもっと激しいようだ」
「絵はインスピレーションですぐかけるからいいが、物理の実験はそううまくはいかない」
「インスピレーションには辟易《へきえき》する。この夏ある所を通ったらばあさんが二人で問答をしていた。聞いてみると梅雨《つゆ》はもう明けたんだろうか、どうだろうかという研究なんだが、一人《ひとり》のばあさんが、昔は雷さえ鳴れば梅雨は明けるにきまっていたが、近ごろじゃそうはいかないとこぼしている。すると一人がどうしてどうして、雷ぐらいで明けることじゃありゃしないと憤慨していた。――絵もそのとおり、今の絵はインスピレーションぐらいでかけることじゃありゃしない。ねえ田村《たむら》さん、小説だって、そうだろう」
 隣に田村という小説家がすわっていた。この男は自分のインスピレーションは原稿の催促以外になんにもないと答えたので、大笑いになった。田村は、それから改まって、野々宮さんに、光線に圧力があるものか、あれば、どうして試験するかと聞きだした。野々宮さんの答はおもしろかった。――
 雲母《マイカ》か何かで、十六武蔵《じゅうろくむさし》ぐらいの大きさの薄い円盤を作って、水晶《すいしょう》の糸で釣るして、真空《しんくう》のうちに置いて、この円盤の面《めん》へ弧光燈《アークとう》の光を直角にあてると、この円盤が光に圧《お》されて動く。と言うのである。
 一座は耳を傾けて聞いていた。なかにも三四郎は腹のなかで、あの福神漬《ふくじんづけ》の缶《かん》のなかに、そんな装置がしてあるのだろうと、上京のさい、望遠鏡で驚かされた昔を思い出した。
「君、水晶の糸があるのか」と小さい声で与次郎に聞いてみた。与次郎は頭を振っている。
「野々宮さん、水晶の糸がありますか」
「ええ、水晶の粉《こ》をね。酸水素|吹管《すいかん》の炎で溶かしておいて、両方の手で、左右へ引っ張ると細い糸ができるのです」
 三四郎は「そうですか」と言ったぎり、引っ込んだ。今度は野々宮さんの隣にいる縞の羽織の批評家が口を出した。
「我々はそういう方面へかけると、全然無学なんですが、はじめはどうして気がついたものでしょうな」
「理論上はマクスウェル以来予想されていたのですが、それをレベデフという人がはじめて実験で証明したのです。近ごろあの彗星《すいせい》の尾が、太陽の方へ引きつけられべきはずであるのに、出るたびにいつでも反対の方角になびくのは光の圧力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思いついた人もあるくらいです」
 批評家はだいぶ感心したらしい。
「思いつきもおもしろいが、第一大きくていいですね」と言った。
「大きいばかりじゃない、罪がなくって愉快だ」と広田先生が言った。
「それでその思いつきがはずれたら、なお罪がなくっていい」と原口さんが笑っている。
「いや、どうもあたっているらしい。光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力のほうは半径の三乗に比例するんだから、物が小さくなればなるほど引力のほうが負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片《パーチクル》からできているとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされるわけだ」
 野々宮は、ついまじめになった。すると原口が例の調子で、
「罪がない代りに、たいへん計算がめんどうになってきた。やっぱり一利一害だ」と言った。この一言《いちごん》で、人々はもとのとおりビールの気分に復した。広田先生が、こんな事を言
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