医科大学生と間違えて部屋の番号を聞いたのかしらんと思って、五、六歩あるいたが、急に気がついた。女に十五号を聞かれた時、もう一ぺんよし子の部屋へあともどりをして、案内すればよかった。残念なことをした。
三四郎はいまさらとって帰す勇気は出なかった。やむをえずまた五、六歩あるいたが、今度はぴたりととまった。三四郎の頭の中に、女の結んでいたリボンの色が映った。そのリボンの色も質も、たしかに野々宮君が兼安《かねやす》で買ったものと同じであると考え出した時、三四郎は急に足が重くなった。図書館の横をのたくるように正門の方へ出ると、どこから来たか与次郎が突然声をかけた。
「おいなぜ休んだ。きょうはイタリー人がマカロニーをいかにして食うかという講義を聞いた」と言いながら、そばへ寄って来て三四郎の肩をたたいた。
二人は少しいっしょに歩いた。正門のそばへ来た時、三四郎は、
「君、今ごろでも薄いリボンをかけるものかな。あれは極暑《ごくしょ》に限るんじゃないか」と聞いた。与次郎はアハハハと笑って、
「○○教授に聞くがいい。なんでも知ってる男だから」と言って取り合わなかった。
正門の所で三四郎はぐあいが悪いからきょうは学校を休むと言い出した。与次郎はいっしょについて来て損をしたといわぬばかりに教室の方へ帰って行った。
四
三四郎の魂がふわつき出した。講義を聞いていると、遠方に聞こえる。わるくすると肝要な事を書き落とす。はなはだしい時はひとの耳を損料で借りているような気がする。三四郎はばかばかしくてたまらない。仕方《しかた》なしに、与次郎に向かって、どうも近ごろは講義がおもしろくないと言い出した。与次郎の答はいつも同じことであった。
「講義がおもしろいわけがない。君はいなか者だから、いまに偉い事になると思って、今日《こんにち》までしんぼうして聞いていたんだろう。愚の至りだ。彼らの講義は開闢《かいびゃく》以来こんなものだ。いまさら失望したってしかたがないや」
「そういうわけでもないが……」三四郎は弁解する。与次郎のへらへら調と、三四郎の重苦しい口のききようが、不釣合《ふつりあい》ではなはだおかしい。
こういう問答を二、三度繰り返しているうちに、いつのまにか半月《はんつき》ばかりたった。三四郎の耳は漸々《ぜんぜん》借りものでないようになってきた。すると今度は与次郎のほうから、三四郎に向かって、
「どうも妙な顔だな。いかにも生活に疲れているような顔だ。世紀末の顔だ」と批評し出した。三四郎は、この批評に対しても依然として、
「そういうわけでもないが……」を繰り返していた。三四郎は世紀末などという言葉を聞いてうれしがるほどに、まだ人工的の空気に触れていなかった。またこれを興味ある玩具《おもちゃ》として使用しうるほどに、ある社会の消息に通じていなかった。ただ生活に疲れているという句が少し気にいった。なるほど疲れだしたようでもある。三四郎は下痢《げり》のためばかりとは思わなかった。けれども大いに疲れた顔を標榜《ひょうぼう》するほど、人生観のハイカラでもなかった。それでこの会話はそれぎり発展しずに済んだ。
そのうち秋は高くなる。食欲は進む。二十三の青年がとうてい人生に疲れていることができない時節が来た。三四郎はよく出る。大学の池の周囲《まわり》もだいぶん回ってみたが、べつだんの変もない。病院の前も何べんとなく往復したが普通の人間に会うばかりである。また理科大学の穴倉へ行って野々宮君に聞いてみたら、妹はもう病院を出たと言う。玄関で会った女の事を話そうと思ったが、先方《さき》が忙しそうなので、つい遠慮してやめてしまった。今度大久保へ行ってゆっくり話せば、名前も素姓《すじょう》もたいていはわかることだから、せかずに引き取った。そうして、ふわふわして方々歩いている。田端《たばた》だの、道灌山《どうかんやま》だの、染井《そめい》の墓地だの、巣鴨《すがも》の監獄だの、護国寺《ごこくじ》だの、――三四郎は新井《あらい》の薬師《やくし》までも行った。新井の薬師の帰りに、大久保へ出て野々宮君の家へ回ろうと思ったら、落合《おちあい》の火葬場《やきば》の辺で道を間違えて、高田《たかた》へ出たので、目白《めじろ》から汽車へ乗って帰った。汽車の中でみやげに買った栗《くり》を一人でさんざん食った。その余りはあくる日与次郎が来て、みんな平らげた。
三四郎はふわふわすればするほど愉快になってきた。初めのうちはあまり講義に念を入れ過ぎたので、耳が遠くなって筆記に困ったが、近ごろはたいていに聞いているからなんともない。講義中にいろいろな事を考える。少しぐらい落としても惜しい気も起こらない。よく観察してみると与次郎はじめみんな同じことである。三四郎はこれくらいでいいものだろうと
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