女が茶を持って来て、お風呂《ふろ》をと言った時は、もうこの婦人は自分の連れではないと断るだけの勇気が出なかった。そこで手ぬぐいをぶら下げて、お先へと挨拶《あいさつ》をして、風呂場へ出て行った。風呂場は廊下の突き当りで便所の隣にあった。薄暗くって、だいぶ不潔のようである。三四郎は着物を脱いで、風呂桶《ふろおけ》の中へ飛び込んで、少し考えた。こいつはやっかいだとじゃぶじゃぶやっていると、廊下に足音がする。だれか便所へはいった様子である。やがて出て来た。手を洗う。それが済んだら、ぎいと風呂場の戸を半分あけた。例の女が入口から、「ちいと流しましょうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、
「いえ、たくさんです」と断った。しかし女は出ていかない。かえってはいって来た。そうして帯を解きだした。三四郎といっしょに湯を使う気とみえる。べつに恥かしい様子も見えない。三四郎はたちまち湯槽《ゆぶね》を飛び出した。そこそこにからだをふいて座敷へ帰って、座蒲団《ざぶとん》の上にすわって、少なからず驚いていると、下女が宿帳を持って来た。
 三四郎は宿帳を取り上げて、福岡県|京都郡《みやこぐん》真崎村《まさきむら》小川《おがわ》三四郎二十三年学生と正直に書いたが、女のところへいってまったく困ってしまった。湯から出るまで待っていればよかったと思ったが、しかたがない。下女がちゃんと控えている。やむをえず同県同郡同村同姓|花《はな》二十三年とでたらめを書いて渡した。そうしてしきりに団扇《うちわ》を使っていた。
 やがて女は帰って来た。「どうも、失礼いたしました」と言っている。三四郎は「いいや」と答えた。
 三四郎は鞄の中から帳面を取り出して日記をつけだした。書く事も何もない。女がいなければ書く事がたくさんあるように思われた。すると女は「ちょいと出てまいります」と言って部屋《へや》を出ていった。三四郎はますます日記が書けなくなった。どこへ行ったんだろうと考え出した。
 そこへ下女が床《とこ》をのべに来る。広い蒲団を一枚しか持って来ないから、床は二つ敷かなくてはいけないと言うと、部屋が狭いとか、蚊帳《かや》が狭いとか言ってらちがあかない。めんどうがるようにもみえる。しまいにはただいま番頭がちょっと出ましたから、帰ったら聞いて持ってまいりましょうと言って、頑固《がんこ》に一枚の蒲団を蚊帳いっぱいに敷いて出て行った。
 それから、しばらくすると女が帰って来た。どうもおそくなりましてと言う。蚊帳の影で何かしているうちに、がらんがらんという音がした。子供にみやげの玩具が鳴ったに違いない。女はやがて風呂敷包みをもとのとおりに結んだとみえる。蚊帳の向こうで「お先へ」と言う声がした。三四郎はただ「はあ」と答えたままで、敷居に尻《しり》を乗せて、団扇を使っていた。いっそこのままで夜を明かしてしまおうかとも思った。けれども蚊《か》がぶんぶん来る。外ではとてもしのぎきれない。三四郎はついと立って、鞄の中から、キャラコのシャツとズボン下を出して、それを素肌《すはだ》へ着けて、その上から紺《こん》の兵児帯《へこおび》を締めた。それから西洋手拭《タウエル》を二筋《ふたすじ》持ったまま蚊帳の中へはいった。女は蒲団の向こうのすみでまだ団扇を動かしている。
「失礼ですが、私は癇症《かんしょう》でひとの蒲団に寝るのがいやだから……少し蚤《のみ》よけの工夫をやるから御免なさい」
 三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布《シート》の余っている端《はじ》を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は一言《ひとこと》も口をきかなかった。女も壁を向いたままじっとして動かなかった。
 夜はようよう明けた。顔を洗って膳《ぜん》に向かった時、女はにこりと笑って、「ゆうべは蚤は出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「ええ、ありがとう、おかげさまで」というようなことをまじめに答えながら、下を向いて、お猪口《ちょく》の葡萄豆《ぶどうまめ》をしきりに突っつきだした。
 勘定《かんじょう》をして宿を出て、停車場《ステーション》へ着いた時、女ははじめて関西線で四日市《よっかいち》の方へ行くのだということを三四郎に話した。三四郎の汽車はまもなく来た。時間のつごうで女は少し待ち合わせることとなった。改札場のきわまで送って来た女は、
「いろいろごやっかいになりまして、……ではごきげんよう」と丁寧にお辞儀をした。三四郎は鞄と傘を片手に持ったまま、あいた手で例の古帽子を取って、ただ一言、
「さよな
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