だか言いにくいのでやめにした。
その代り広田さんの事を聞いた。三四郎は広田さんの名前をこれで三、四へん耳にしている。そうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名をつけている。それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑われたのもやはり広田先生にしてある。ところが今承ってみると、馬の件ははたして広田先生であった。それで水蜜桃も必ず同先生に違いないと決めた。考えると、少し無理のようでもある。
帰る時に、ついでだから、午前中に届けてもらいたいと言って、袷《あわせ》を一枚病院まで頼まれた。三四郎は大いにうれしかった。
三四郎は新しい四角な帽子をかぶっている。この帽子をかぶって病院に行けるのがちょっと得意である。さえざえしい顔をして野々宮君の家を出た。
御茶の水で電車を降りて、すぐ俥《くるま》に乗った。いつもの三四郎に似合わぬ所作《しょさ》である。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科のベルが鳴り出した。いつもならノートとインキ壺《つぼ》を持って、八番の教室にはいる時分である。一、二時間の講義ぐらい聞きそくなってもかまわないという気で、まっすぐに青山内科の玄関まで乗りつけた。
上がり口を奥へ、二つ目の角を右へ切れて、突当たりを左へ曲がると東側の部屋《へや》だと教わったとおり歩いて行くと、はたしてあった。黒塗りの札に野々宮よし子と仮名《かな》で書いて、戸口に掛けてある。三四郎はこの名前を読んだまま、しばらく戸口の所でたたずんでいた。いなか物だからノックするなぞという気の利《き》いた事はやらない。「この中にいる人が、野々宮君の妹で、よし子という女である」
三四郎はこう思って立っていた。戸をあけて顔が見たくもあるし、見て失望するのがいやでもある。自分の頭の中に往来する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似ていないのだから困る。
うしろから看護婦が草履《ぞうり》の音をたてて近づいて来た。三四郎は思い切って戸を半分ほどあけた。そうして中にいる女と顔を見合わせた。(片手にハンドルをもったまま)
目の大きな、鼻の細い、唇《くちびる》の薄い、鉢《はち》が開いたと思うくらいに、額が広くって顎《あご》がこけた女であった。造作はそれだけである。けれども三四郎は、こういう顔だちから出る、この時にひらめいた咄嗟《とっさ》の表情を生まれてはじめて見た。青白い額のうしろに、自然のままにたれた濃い髪が、肩まで見える。それへ東窓をもれる朝日の光が、うしろからさすので、髪と日光《ひ》の触れ合う境のところが菫色《すみれいろ》に燃えて、生きた暈《つきかさ》をしょってる。それでいて、顔も額もはなはだ暗い。暗くて青白い。そのなかに遠い心持ちのする目がある。高い雲が空の奥にいて容易に動かない。けれども動かずにもいられない。ただなだれるように動く。女が三四郎を見た時は、こういう目つきであった。
三四郎はこの表情のうちにものうい憂鬱《ゆううつ》と、隠さざる快活との統一を見いだした。その統一の感じは三四郎にとって、最も尊き人生の一片である。そうして一大発見である。三四郎はハンドルをもったまま、――顔を戸の影から半分部屋の中に差し出したままこの刹那《せつな》の感に自《みずか》らを放下《ほうげ》し去った。
「おはいりなさい」
女は三四郎を待ち設けたように言う。その調子には初対面の女には見いだすことのできない、安らかな音色《ねいろ》があった。純粋の子供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、こうは出られない。なれなれしいのとは違う。初めから古い知り合いなのである。同時に女は肉の豊かでない頬《ほお》を動かしてにこりと笑った。青白いうちに、なつかしい暖かみができた。三四郎の足はしぜんと部屋の内へはいった。その時青年の頭のうちには遠い故郷にある母の影がひらめいた。
戸のうしろへ回って、はじめて正面に向いた時、五十あまりの婦人が三四郎に挨拶をした。この婦人は三四郎のからだがまだ扉の陰を出ないまえから席を立って待っていたものとみえる。
「小川《おがわ》さんですか」と向こうから尋ねてくれた。顔は野々宮君に似ている。娘にも似ている。しかしただ似ているというだけである。頼まれた風呂敷包《ふろしきづつ》みを出すと、受け取って、礼を述べて、
「どうぞ」と言いながら椅子をすすめたまま、自分は寝台《ベッド》の向こう側へ回った。
寝台の上に敷いた蒲団《ふとん》を見るとまっ白である。上へ掛けるものもまっ白である。それを半分ほど斜《はす》にはぐって、裾《すそ》のほうが厚く見えるところを、よけるように、女は窓を背にして腰をかけた。足は床に届かない。手に編針を持っている。毛糸のたま[#「たま」に傍点]が寝台の下に転がった。女の手から長い赤い糸が筋を引いている。三四郎は寝台
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