のっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]なるかな」
と、のっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]を二へん繰り返している。三四郎は黙然として考え込んでいた。すると、うしろからちょいと肩をたたいた者がある。例の与次郎であった。与次郎を図書館で見かけるのは珍しい。彼は講義はだめだが、図書館は大切だと主張する男である。けれども主張どおりにはいることも少ない男である。
「おい、野々宮宗八さんが、君を捜していた」と言う。与次郎が野々宮君を知ろうとは思いがけなかったから、念のため理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんという答を得た。さっそく本を置いて入口の新聞を閲覧する所まで出て行ったが、野々宮君がいない。玄関まで出てみたがやっぱりいない。石段を降りて、首を延ばしてその辺を見回したが影も形も見えない。やむを得ず引き返した。もとの席へ来てみると、与次郎が、例のヘーゲル論をさして、小さな声で、
「だいぶ振《ふる》ってる。昔の卒業生に違いない。昔のやつは乱暴だが、どこかおもしろいところがある。実際このとおりだ」とにやにやしている。だいぶ気に入ったらしい。三四郎は
「野々宮さんはおらんぜ」と言う。
「さっき入口にいたがな」
「何か用があるようだったか」
「あるようでもあった」
二人はいっしょに図書館を出た。その時与次郎が話した。――野々宮君は自分の寄寓《きぐう》している広田先生の、もとの弟子《でし》でよく来る。たいへんな学問好きで、研究もだいぶある。その道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知っている。
三四郎はまた、野々宮君の先生で、昔正門内で馬に苦しめられた人の話を思い出して、あるいはそれが広田先生ではなかろうかと考えだした。与次郎にその事を話すと、与次郎は、ことによると、うちの先生だ、そんなことをやりかねない人だと言って笑っていた。
その翌日はちょうど日曜なので、学校では野々宮君に会うわけにゆかない。しかしきのう自分を捜していたことが気がかりになる。さいわいまだ新宅を訪問したことがないから、こっちから行って用事を聞いてきようという気になった。
思い立ったのは朝であったが、新聞を読んでぐずぐずしているうちに昼になる。昼飯《ひる》を食べたから、出かけようとすると、久しぶりに熊本出の友人が来る。ようやくそれを帰したのはかれこれ四時過ぎである。ちとおそくなったが、予定のとおり出た。
野々宮の家はすこぶる遠い。四、五日前|大久保《おおくぼ》へ越した。しかし電車を利用すれば、すぐに行かれる。なんでも停車場《ステーション》の近辺と聞いているから、捜すに不便はない。実をいうと三四郎はかの平野家行き以来とんだ失敗をしている。神田《かんだ》の高等商業学校へ行くつもりで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段《くだん》まで来て、ついでに飯田橋《いいだばし》まで持ってゆかれて、そこでようやく外濠線《そとぼりせん》へ乗り換えて、御茶《おちゃ》の水《みず》から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸《かまくらがし》を数寄屋橋《すきやばし》の方へ向いて急いで行ったことがある。それより以来電車はとかくぶっそうな感じがしてならないのだが、甲武線《こうぶせん》は一筋《ひとすじ》だと、かねて聞いているから安心して乗った。
大久保の停車場を降りて、仲百人《なかひゃくにん》の通りを戸山《とやま》学校の方へ行かずに、踏切からすぐ横へ折れると、ほとんど三尺ばかりの細い道になる。それを爪先《つまさき》上がりにだらだらと上がると、まばらな孟宗藪《もうそうやぶ》がある。その藪の手前と先に一軒ずつ人が住んでいる。野々宮の家はその手前の分であった。小さな門が道の向きにまるで関係のないような位置に筋《すじ》かいに立っていた。はいると、家がまた見当違いの所にあった。門も入口もまったくあとからつけたものらしい。
台所のわきにりっぱな生垣《いけがき》があって、庭の方にはかえって仕切りもなんにもない。ただ大きな萩《はぎ》が人の背より高く延びて、座敷の椽側《えんがわ》を少し隠しているばかりである。野々宮君はこの椽側に椅子《いす》を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋の雑誌を読んでいた。三四郎のはいって来たのを見て、
「こっちへ」と言った。まるで理科大学の穴倉の中と同じ挨拶である。庭からはいるべきのか、玄関から回るべきのか、三四郎は少しく躊躇《ちゅうちょ》していた。するとまた
「こっちへ」と催促するので、思い切って庭から上がることにした。座敷はすなわち書斎で、広さは八畳で、わりあいに西洋の書物がたくさんある。野々宮君は椅子を離れてすわった。三四郎は閑静な所だとか、わりあいに御茶の水まで早く出られるとか、望遠鏡の試験はどうなりましたとか、――締まりのない当座の話をやったあと、
「きのう私を捜し
前へ
次へ
全91ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング