オた事件にはならずに済んだのだろう。もっとも与次郎の心理現象はとうてい三四郎にはわからないのだから、じっさいどんなことがあったか想像はできない。
三四郎は長火鉢《ながひばち》の前へすわった。鉄瓶《てつびん》がちんちん鳴っている。ばあさんは遠慮をして下女|部屋《べや》へ引き取った。三四郎はあぐらをかいて、鉄瓶に手をかざして、先生の起きるのを待っている。先生は熟睡している。三四郎は静かでいい心持ちになった。爪《つめ》で鉄瓶をたたいてみた。熱い湯を茶碗《ちゃわん》についでふうふう吹いて飲んだ。先生は向こうをむいて寝ている。二、三日まえに頭を刈ったとみえて、髪がはなはだ短かい。髭のはじが濃く出ている。鼻も向こうを向いている。鼻の穴がすうすう言う。安眠だ。
三四郎は返そうと思って、持って来たハイドリオタフヒアを出して読みはじめた。ぽつぽつ拾い読みをする。なかなかわからない。墓の中に花を投げることが書いてある。ローマ人は薔薇《ばら》を affect《アッフェクト》 すると書いてある。なんの意味だかよく知らないが、おおかた好むとでも訳するんだろうと思った。ギリシア人は Amaranth《アマランス》 を用いると書いてある。これも明瞭でない。しかし花の名には違いない。それから少しさきへ行くと、まるでわからなくなった。ページから目を離して先生を見た。まだ寝ている。なんでこんなむずかしい書物を自分に貸したものだろうと思った。それから、このむずかしい書物が、なぜわからないながらも、自分の興味をひくのだろうと思った。最後に広田先生は必竟《ひっきょう》ハイドリオタフヒアだと思った。
そうすると、広田先生がむくりと起きた。首だけ持ち上げて、三四郎を見た。
「いつ来たの」と聞いた。三四郎はもっと寝ておいでなさいと勧めた。じっさい退屈ではなかったのである。先生は、
「いや起きる」と言って起きた。それから例のごとく哲学の煙を吹きはじめた。煙が沈黙のあいだに、棒になって出る。
「ありがとう。書物を返します」
「ああ。――読んだの」
「読んだけれどもよくわからんです。第一標題がわからんです」
「ハイドリオタフヒア」
「なんのことですか」
「なんのことかぼくにもわからない。とにかくギリシア語らしいね」
三四郎はあとを尋ねる勇気が抜けてしまった。先生はあくびを一つした。
「ああ眠かった。いい心持ちに寝た。おもしろい夢を見てね」
先生は女の夢だと言っている。それを話すのかと思ったら、湯に行かないかと言いだした。二人は手ぬぐいをさげて出かけた。
湯から上がって、二人が板の間にすえてある器械の上に乗って、身長《たけ》を測ってみた。広田先生は五尺六寸ある。三四郎は四寸五分しかない。
「まだのびるかもしれない」と広田先生が三四郎に言った。
「もうだめです。三年来このとおりです」と三四郎が答えた。
「そうかな」と先生が言った。自分をよっぽど子供のように考えているのだと三四郎は思った。家へ帰った時、先生が、用がなければ話していってもかまわないと、書斎の戸をあけて、自分がさきへはいった。三四郎はとにかく、例の用事を片づける義務があるから、続いてはいった。
「佐々木は、まだ帰らないようですな」
「きょうはおそくなるとか言って断わっていた。このあいだから演芸会のことでだいぶん奔走しているようだが、世話好きなんだか、駆け回ることが好きなんだか、いっこう要領を得ない男だ」
「親切なんですよ」
「目的だけは親切なところも少しあるんだが、なにしろ、頭のできがはなはだ不親切なものだから、ろくなことはしでかさない。ちょっと見ると、要領を得ている。むしろ得すぎている。けれども終局へゆくと、なんのために要領を得てきたのだか、まるでめちゃくちゃになってしまう。いくら言っても直さないからほうっておく。あれは悪戯《いたずら》をしに世の中へ生まれて来た男だね」
三四郎はなんとか弁護の道がありそうなものだと思ったが、現に結果の悪い実例があるんだから、しようがない。話を転じた。
「あの新聞の記事を御覧でしたか」
「ええ、見た」
「新聞に出るまではちっとも御存じなかったのですか」
「いいえ」
「お驚きなすったでしょう」
「驚くって――それはまったく驚かないこともない。けれども世の中の事はみんな、あんなものだと思ってるから、若い人ほど正直に驚きはしない」
「御迷惑でしょう」
「迷惑でないこともない。けれどもぼくくらい世の中に住み古した年配の人間なら、あの記事を見て、すぐ事実だと思い込む人ばかりもないから、やっぱり若い人ほど正直に迷惑とは感じない。与次郎は社員に知った者があるから、その男に頼んで真相を書いてもらうの、あの投書の出所《でどころ》を捜して制裁を加えるの、自分の雑誌で十分|反駁《はんばく》をいた
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