る。移りやすい美しさを、移さずにすえておく手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞こえたからである。
 なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。色光沢《いろつや》がよくない。目尻《めじり》にたえがたいものうさが見える。三四郎はこの活人画から受ける安慰の念を失った。同時にもしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考えついた。たちまち強烈な個性的の刺激が三四郎の心をおそってきた。移り行く美をはかなむという共通性の情緒《じょうしょ》はまるで影をひそめてしまった。――自分はそれほどの影響をこの女のうえに有しておる。――三四郎はこの自覚のもとにいっさいの己を意識した。けれどもその影響が自分にとって、利益か不利益かは未決の問題である。
 その時原口さんが、とうとう筆をおいて、
「もうよそう。きょうはどうしてもだめだ」と言いだした。美禰子は持っていた団扇《うちわ》を、立ちながら床の上に落とした。椅子にかけた羽織を取って着ながら、こちらへ寄って来た。
「きょうは疲れていますね」
「私?」と羽織の裄《ゆき》をそろえて、紐《ひも》を結んだ。
「いやじつはぼくも疲れた。またあした天気のいい時にやりましょう。まあお茶でも飲んでゆっくりなさい」
 夕暮れには、まだ間《ま》があった。けれども美禰子は少し用があるから帰るという。三四郎も留められたが、わざと断って、美禰子といっしょに表へ出た。日本の社会状態で、こういう機会を、随意に造ることは、三四郎にとって困難である。三四郎はなるべくこの機会を長く引き延ばして利用しようと試みた。それで比較的人の通らない、閑静な曙町を一回《ひとまわ》り散歩しようじゃないかと女をいざなってみた。ところが相手は案外にも応じなかった。一直線に生垣《いけがき》の間を横切って、大通りへ出た。三四郎は、並んで歩きながら、
「原口さんもそう言っていたが、本当にどうかしたんですか」と聞いた。
「私?」と美禰子がまた言った。原口さんに答えたと同じことである。三四郎が美禰子を知ってから、美禰子はかつて、長い言葉を使ったことがない。たいていの応対は一句か二句で済ましている。しかもはなはだ簡単なものにすぎない。それでいて、三四郎の耳には一種の深い響を与える。ほとんど他の人からは、聞きうることのできない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がった。
「私?」と言った時、女は顔を半分ほど三四郎の方へ向けた。そうして二重瞼の切れ目から男を見た。その目には暈《かさ》がかかっているように思われた。いつになく感じがなまぬるくきた。頬の色も少し青い。
「色が少し悪いようです」
「そうですか」
 二人は五、六歩無言で歩いた。三四郎はどうともして、二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくなった。しかしなんといったら破れるか、まるで分別が出なかった。小説などにある甘い言葉は使いたくない。趣味のうえからいっても、社交上若い男女《なんにょ》の習慣としても、使いたくない。三四郎は事実上不可能の事を望んでいる。望んでいるばかりではない。歩きながら工夫している。
 やがて、女のほうから口をききだした。
「きょう何か原口さんに御用がおありだったの」
「いいえ、用事はなかったです」
「じゃ、ただ遊びにいらしったの」
「いいえ、遊びに行ったんじゃありません」
「じゃ、なんでいらしったの」
 三四郎はこの瞬間を捕えた。
「あなたに会いに行ったんです」
 三四郎はこれで言えるだけの事をことごとく言ったつもりである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、いつものごとく男を酔わせる調子で、
「お金は、あすこじゃいただけないのよ」と言った。三四郎はがっかりした。
 二人はまた無言で五、六間来た。三四郎は突然口を開いた。
「本当は金を返しに行ったのじゃありません」
 美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。
「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」
 三四郎は堪えられなくなった。急に、
「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。
「お金は……」
「金なんぞ……」
 二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。それなりで、また小半町ほど来た。今度は女から話しかけた。
「原口さんの絵を御覧になって、どうお思いなすって」
 答え方がいろいろあるので、三四郎は返事をせずに少しのあいだ歩いた。
「あんまりでき方が早いのでお驚きなさりゃしなくって」
「ええ」と言ったが、じつははじめて気がついた。考えると、原口が広田先生の所へ来て、美禰子の肖像をかく意志をもらしてから、まだ一か月ぐらいにしかならない。展覧会で直接に
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