「ってやるだろう。
 下宿の二階へ上って、自分の部屋へはいって、すわってみると、やっぱり風の音がする。三四郎はこういう風の音を聞くたびに、運命という字を思い出す。ごうと鳴ってくるたびにすくみたくなる。自分ながらけっして強い男とは思っていない。考えると、上京以来自分の運命はたいがい与次郎のためにこしらえられている。しかも多少の程度において、和気|靄然《あいぜん》たる翻弄《ほんろう》を受けるようにこしらえられている。与次郎は愛すべき悪戯者《いたずらもの》である。向後もこの愛すべき悪戯者のために、自分の運命を握られていそうに思う。風がしきりに吹く。たしかに与次郎以上の風である。
 三四郎は母から来た三十円を枕元《まくらもと》へ置いて寝た。この三十円も運命の翻弄が生んだものである。この三十円がこれからさきどんな働きをするか、まるでわからない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受け取る時に、また一煽《ひとあお》り来るにきまっている。三四郎はなるべく大きく来ればいいと思った。
 三四郎はそれなり寝ついた。運命も与次郎も手を下しようのないくらいすこやかな眠りに入った。すると半鐘の音で目がさめた。どこかで人声がする。東京の火事はこれで二へん目である。三四郎は寝巻の上へ羽織を引っかけて、窓をあけた。風はだいぶ落ちている。向こうの二階屋が風の鳴る中に、まっ黒に見える。家が黒いほど、家のうしろの空は赤かった。
 三四郎は寒いのを我慢して、しばらくこの赤いものを見つめていた。その時三四郎の頭には運命がありありと赤く映った。三四郎はまた暖かい蒲団《ふとん》の中にもぐり込んだ。そうして、赤い運命の中で狂い回る多くの人の身の上を忘れた。
 夜が明ければ常の人である。制服をつけて、ノートを持って、学校へ出た。ただ三十円を懐《ふところ》にすることだけは忘れなかった。あいにく時間割のつごうが悪い。三時までぎっしり詰まっている。三時過ぎに行けば、よし子も学校から帰って来ているだろう。ことによれば里見恭助という兄も在宅《うち》かもしれない。人がいては、金を返すのが、まったくだめのような気がする。
 また与次郎が話しかけた。
「ゆうべはお談義を聞いたか」
「なにお談義というほどでもない」
「そうだろう、野々宮さんは、あれで理由《わけ》のわかった人だからな」と言ってどこかへ行ってしまった。二時間後の講義の時にまた出会った。
「広田先生のことは大丈夫うまくいきそうだ」と言う。どこまで事が運んだか聞いてみると、
「いや心配しないでもいい。いずれゆっくり話す。先生が君がしばらく来ないと言って、聞いていたぜ。時々行くがいい。先生は一人ものだからな。我々が慰めてやらんと、いかん。今度何か買って来い」と言いっぱなして、それなり消えてしまった。すると、次の時間にまたどこからか現われた。今度はなんと思ったか、講義の最中に、突然、
「金受け取ったりや」と電報のようなものを白紙《しらかみ》へ書いて出した。三四郎は返事を書こうと思って、教師の方を見ると、教師がちゃんとこっちを見ている。白紙を丸めて足の下へなげた。講義が終るのを待って、はじめて返事をした。
「金は受け取った、ここにある」
「そうかそれはよかった。返すつもりか」
「むろん返すさ」
「それがよかろう。はやく返すがいい」
「きょう返そうと思う」
「うん昼過ぎおそくならいるかもしれない」
「どこかへ行くのか」
「行くとも、毎日毎日絵にかかれに行く。もうよっぽどできたろう」
「原口さんの所か」
「うん」
 三四郎は与次郎から原口さんの宿所を聞きとった。

       一〇

 広田先生が病気だというから、三四郎が見舞いに来た。門をはいると、玄関に靴《くつ》が一足そろえてある。医者かもしれないと思った。いつものとおり勝手口へ回るとだれもいない。のそのそ上がり込んで茶の間へ来ると、座敷で話し声がする。三四郎はしばらくたたずんでいた。手にかなり大きな風呂敷包《ふろしきづつ》みをさげている。中には樽柿《たるがき》がいっぱいはいっている。今度来る時は、何か買ってこいと、与次郎の注意があったから、追分の通りで買って来た。すると座敷のうちで、突然どたりばたりという音がした。だれか組打ちを始めたらしい。三四郎は必定《ひつじょう》喧嘩《けんか》と思い込んだ。風呂敷包みをさげたまま、仕切りの唐紙《からかみ》を鋭どく一尺ばかりあけてきっとのぞきこんだ。広田先生が茶の袴《はかま》をはいた大きな男に組み敷かれている。先生は俯伏《うつぶ》しの顔をきわどく畳から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑いながら、
「やあ、おいで」と言った。上の男はちょっと振り返ったままである。
「先生、失礼ですが、起きてごらんなさい」と言う。なんでも先生の手を逆に取って、肘《
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