オては、もう与次郎の責任を忘れてしまった。したがって与次郎の頭にかかってこない返事をした。
「いつまでも借りておくのは、いやだから、家へそう言ってやったんだ」
「君はいやでも、向こうでは喜ぶよ」
「なぜ」
 このなぜが三四郎自身にはいくぶんか虚偽の響らしく聞こえた。しかし相手にはなんらの影響も与えなかったらしい。
「あたりまえじゃないか。ぼくを人にしたって、同じことだ。ぼくに金が余っているとするぜ。そうすれば、その金を君から返してもらうよりも、君に貸しておくほうがいい心持ちだ。人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ」
 三四郎は返事をしないで、講義を筆記しはじめた。二、三行書きだすと、与次郎がまた、耳のそばへ口を持ってきた。
「おれだって、金のある時はたびたび人に貸したことがある。しかしだれもけっして返したものがない。それだからおれはこのとおり愉快だ」
 三四郎はまさか、そうかとも言えなかった。薄笑いをしただけで、またペンを走らしはじめた。与次郎もそれからはおちついて、時間の終るまで口をきかなかった。
 ベルが鳴って、二人肩を並べて教場を出る時、与次郎が、突然聞いた。
「あの女は君にほれているのか」
 二人のあとから続々聴講生が出てくる。三四郎はやむをえず無言のまま梯子段《はしごだん》を降りて横手の玄関から、図書館わきの空地《あきち》へ出て、はじめて与次郎を顧みた。
「よくわからない」
 与次郎はしばらく三四郎を見ていた。
「そういうこともある。しかしよくわかったとして、君、あの女の夫《ハスバンド》になれるか」
 三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。美禰子に愛せられるという事実そのものが、彼女《かのおんな》の夫《ハスバンド》たる唯一《ゆいいつ》の資格のような気がしていた。言われてみると、なるほど疑問である。三四郎は首を傾けた。
「野々宮さんならなれる」と与次郎が言った。
「野々宮さんと、あの人とは何か今までに関係があるのか」
 三四郎の顔は彫りつけたようにまじめであった。与次郎は一口、
「知らん」と言った。三四郎は黙っている。
「また野々宮さんの所へ行って、お談義を聞いてこい」と言いすてて、相手は池の方へ行きかけた。三四郎は愚劣の看板のごとく突っ立った。与次郎は五、六歩行ったが、また笑いながら帰ってきた。
「君、いっそ、よし子さんをもらわないか」と言いながら、三四郎を引っ張って、池の方へ連れて行った。歩きながら、あれならいい、あれならいいと、二度ほど繰り返した。そのうちまたベルが鳴った。
 三四郎はその夕方野々宮さんの所へ出かけたが、時間がまだすこし早すぎるので、散歩かたがた四丁目まで来て、シャツを買いに大きな唐物屋《とうぶつや》へはいった。小僧が奥からいろいろ持ってきたのをなでてみたり、広げてみたりして、容易に買わない。わけもなく鷹揚《おうよう》にかまえていると、偶然美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た。あらと言って挨拶をしたあとで、美禰子が、
「せんだってはありがとう」と礼を述べた。三四郎にはこのお礼の意味が明らかにわかった。美禰子から金を借りたあくる日もう一ぺん訪問して余分をすぐに返すべきところを、ひとまず見合わせた代りに、二日《ふつか》ばかり待って、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送った。
 手紙の文句は、書いた人の、書いた当時の気分をすなおに表わしたものではあるが、むろん書きすぎている。三四郎はできるだけの言葉を層々《そうそう》と排列して感謝の意を熱烈にいたした。普通の者から見ればほとんど借金の礼状とは思われないくらいに、湯気の立ったものである。しかし感謝以外には、なんにも書いてない。それだから、自然の勢い、感謝が感謝以上になったのでもある。三四郎はこの手紙をポストに入れる時、時を移さぬ美禰子の返事を予期していた。ところがせっかくの封書はただ行ったままである。それから美禰子に会う機会はきょうまでなかった。三四郎はこの微弱なる「このあいだはありがとう」という反響に対して、はっきりした返事をする勇気も出なかった。大きなシャツを両手で目のさきへ広げてながめながら、よし子がいるからああ冷淡なんだろうかと考えた。それからこのシャツもこの女の金で買うんだなと考えた。小僧はどれになさいますと催促した。
 二人の女は笑いながらそばへ来て、いっしょにシャツを見てくれた。しまいに、よし子が「これになさい」と言った。三四郎はそれにした。今度は三四郎のほうが香水の相談を受けた。いっこうわからない。ヘリオトロープと書いてある罎《びん》を持って、いいかげんに、これはどうですと言うと、美禰子が、「それにしましょう」とすぐ決めた。三四郎は気の毒なくらいであった。
 表へ出て別れようとすると、女のほうが
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