ワったく二十世紀の気がしなくなるからいい。どうして今の世にああ間が抜けていられるだろうと思うと、それだけでたいへんな薬になる。いくらぼくがのん気でも、鼓の音のような絵はとてもかけないから」
「かこうともしないんじゃないか」
「かけないんだもの。今の東京にいる者に悠揚《ゆうよう》な絵ができるものか。もっとも絵にもかぎるまいけれども。――絵といえば、このあいだ大学の運動会へ行って、里見と野々宮さんの妹のカリカチュアーをかいてやろうと思ったら、とうとう逃げられてしまった。こんだ一つ本当の肖像画をかいて展覧会にでも出そうかと思って」
「だれの」
「里見の妹の。どうも普通の日本の女の顔は歌麿式《うたまろしき》や何かばかりで、西洋の画布《カンバス》にはうつりが悪くっていけないが、あの女や野々宮さんはいい。両方ともに絵になる。あの女が団扇《うちわ》をかざして、木立《こだち》をうしろに、明るい方を向いているところを等身《ライフサイズ》に写してみようかしらと思っている。西洋の扇は厭味《いやみ》でいけないが、日本の団扇は新しくっておもしろいだろう。とにかくはやくしないとだめだ。いまに嫁にでもいかれようものなら、そうこっちの自由にいかなくなるかもしれないから」
 三四郎は多大な興味をもって原口の話を聞いていた。ことに美禰子が団扇をかざしている構図は非常な感動を三四郎に与えた。不思議の因縁が二人の間に存在しているのではないかと思うほどであった。すると広田先生が、「そんな図はそうおもしろいこともないじゃないか」と無遠慮な事を言いだした。
「でも当人の希望なんだもの。団扇をかざしているところは、どうでしょうと言うから、すこぶる妙でしょうと言って承知したのさ。なに、悪い図どりではないよ。かきようにもよるが」
「あんまり美しくかくと、結婚の申込みが多くなって困るぜ」
「ハハハじゃ中ぐらいにかいておこう。結婚といえば、あの女も、もう嫁にゆく時期だね。どうだろう、どこかいい口はないだろうか。里見にも頼まれているんだが」
「君もらっちゃどうだ」
「ぼくか。ぼくでよければもらうが、どうもあの女には信用がなくってね」
「なぜ」
「原口さんは洋行する時にはたいへんな気込みで、わざわざ鰹節《かつぶし》を買い込んで、これでパリーの下宿に籠城《ろうじょう》するなんて大いばりだったが、パリーへ着くやいなや、たちまち豹変《ひょうへん》したそうですねって笑うんだから始末がわるい。おおかた兄《あにき》からでも聞いたんだろう」
「あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。勧めたってだめだ。好きな人があるまで独身で置くがいい」
「まったく西洋流だね。もっともこれからの女はみんなそうなるんだから、それもよかろう」
 それから二人の間に長い絵画談があった。三四郎は広田先生の西洋の画工の名をたくさん知っているのに驚いた。帰るとき勝手口で下駄《げた》を捜していると、先生が梯子段《はしごだん》の下へ来て「おい佐々木ちょっと降りて来い」と言っていた。
 戸外《そと》は寒い。空は高く晴れて、どこから露が降るかと思うくらいである。手が着物にさわると、さわった所だけがひやりとする。人通りの少ない小路《こうじ》を二、三度折れたり曲がったりしてゆくうちに、突然|辻占屋《つじうらや》に会った。大きな丸い提灯《ちょうちん》をつけて、腰から下をまっ赤にしている。三四郎は辻占が買ってみたくなった。しかしあえて買わなかった。杉垣《すぎがき》に羽織の肩が触れるほどに、赤い提灯をよけて通した。しばらくして、暗い所をはすに抜けると、追分の通りへ出た。角《かど》に蕎麦屋《そばや》がある。三四郎は今度は思い切って暖簾《のれん》をくぐった。少し酒を飲むためである。
 高等学校の生徒が三人いる。近ごろ学校の先生が昼の弁当に蕎麦を食う者が多くなったと話している。蕎麦屋の担夫《かつぎ》が午砲《どん》が鳴ると、蒸籠《せいろ》や種《たね》ものを山のように肩へ載せて、急いで校門をはいってくる。ここの蕎麦屋はあれでだいぶもうかるだろうと話している。なんとかいう先生は夏でも釜揚饂飩《かまあげうどん》を食うが、どういうものだろうと言っている。おおかた胃が悪いんだろうと言っている。そのほかいろいろの事を言っている。教師の名はたいてい呼び棄てにする。なかに一人広田さんと言った者がある。それからなぜ広田さんは独身でいるかという議論を始めた。広田さんの所へ行くと女の裸体画がかけてあるから、女がきらいなんじゃなかろうという説である。もっともその裸体画は西洋人だからあてにならない。日本の女はきらいかもしれないという説である。いや失恋の結果に違いないという説も出た。失恋してあんな変人になったのかと質問した者もあった。しかし若い美人が出入するという噂《うわ
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