方は生垣《いけがき》で仕切ってある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎はこの狭い囲いの中に立った池の女を見るやいなや、たちまち悟った。――花は必ず剪《き》って、瓶裏《へいり》にながむべきものである。
 この時三四郎の腰は椽側を離れた。女は折戸を離れた。
「失礼でございますが……」
 女はこの句を冒頭に置いて会釈《えしゃく》した。腰から上を例のとおり前へ浮かしたが、顔はけっして下げない。会釈しながら、三四郎を見つめている。女の咽喉《のど》が正面から見ると長く延びた。同時にその目が三四郎の眸《ひとみ》に映った。
 二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてもらった。その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。艶《えん》なるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに堪《た》えうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。しかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい。
「広田さんのお移転《こし》になるのは、こちらでございましょうか」
「はあ、ここです」
 女の声と調子に比べると、三四郎の答はすこぶるぶっきらぼうである。三四郎も気がついている。けれどもほかに言いようがなかった。
「まだお移りにならないんでございますか」女の言葉ははっきりしている。普通のようにあとを濁さない。
「まだ来ません。もう来るでしょう」
 女はしばしためらった。手に大きな籃《バスケット》をさげている。女の着物は例によって、わからない。ただいつものように光らないだけが目についた。地がなんだかぶつぶつしている。それに縞《しま》だか模様だかある。その模様がいかにもでたらめである。
 上から桜の葉が時々落ちてくる。その一つが籃の蓋《ふた》の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれていった。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。
「あなたは……」
 風が隣へ越した時分、女が三四郎に聞いた。
「掃除に頼まれて来たのです」と言ったが、現に腰をかけてぽかんとしていたところを見られたのだから、三四郎は自分でおかしくなった。すると女も笑いながら、
「じゃ私も少しお待ち申しましょうか」と言った。その言い方が三四郎に許諾を求めるように聞こえたので、三四郎は大いに愉快であった。そこで「ああ」と答えた。三四郎の了見では、「ああ、お待ちなさい」を略したつもりである。女はそれでもまだ立っている。三四郎はしかたがないから、
「あなたは……」と向こうで聞いたようなことをこっちからも聞いた。すると、女は籃を椽の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出して、三四郎にくれた。
 名刺には里見《さとみ》美禰子《みねこ》とあった。本郷《ほんごう》真砂町《まさごちょう》だから谷を越すとすぐ向こうである。三四郎がこの名刺をながめているあいだに、女は椽に腰をおろした。
「あなたにはお目にかかりましたな」と名刺を袂《たもと》へ入れた三四郎が顔をあげた。
「はあ。いつか病院で……」と言って女もこっちを向いた。
「まだある」
「それから池の端《はた》で……」と女はすぐ言った。よく覚えている。三四郎はそれで言う事がなくなった。女は最後に、
「どうも失礼いたしました」と句切りをつけたので、三四郎は、
「いいえ」と答えた。すこぶる簡潔である。二人《ふたり》は桜の枝を見ていた。梢《こずえ》に虫の食ったような葉がわずかばかり残っている。引っ越しの荷物はなかなかやってこない。
「なにか先生に御用なんですか」
 三四郎は突然こう聞いた。高い桜の枯枝を余念なくながめていた女は、急に三四郎の方を振りむく。あらびっくりした、ひどいわ、という顔つきであった。しかし答は尋常である。
「私もお手伝いに頼まれました」
 三四郎はこの時はじめて気がついて見ると、女の腰をかけている椽に砂がいっぱいたまっている。
「砂でたいへんだ。着物がよごれます」
「ええ」と左右をながめたぎりである。腰を上げない。しばらく椽を見回した目を、三四郎に移すやいなや、
「掃除はもうなすったんですか」と聞いた。笑っている。三四郎はその笑いのなかに慣れやすいあるものを認めた。
「まだやらんです」
「お手伝いをして、いっしょに始めましょうか」
 三四郎はすぐに立った。女は動かない。腰をかけたまま、箒やはたきのありかを聞く。三四郎は、ただてぶらで来たのだから、どこにもない、なんなら通りへ行っ
前へ 次へ
全91ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング