ている。絹のためだろう。――腰から下は正しい姿勢にある。
 女はやがてもとのとおりに向き直った。目を伏せて二足ばかり三四郎に近づいた時、突然首を少しうしろに引いて、まともに男を見た。二重瞼《ふたえまぶた》の切長《きれなが》のおちついた恰好《かっこう》である。目立って黒い眉毛《まゆげ》の下に生きている。同時にきれいな歯があらわれた。この歯とこの顔色とは三四郎にとって忘るべからざる対照であった。
 きょうは白いものを薄く塗っている。けれども本来の地を隠すほどに無趣味ではなかった。こまやかな肉が、ほどよく色づいて、強い日光《ひ》にめげないように見える上を、きわめて薄く粉《こ》が吹いている。てらてら照《ひか》る顔ではない。
 肉は頬といわず顎といわずきちりと締まっている。骨の上に余ったものはたんとないくらいである。それでいて、顔全体が柔かい。肉が柔かいのではない骨そのものが柔かいように思われる。奥行きの長い感じを起こさせる顔である。
 女は腰をかがめた。三四郎は知らぬ人に礼をされて驚いたというよりも、むしろ礼のしかたの巧みなのに驚いた。腰から上が、風に乗る紙のようにふわりと前に落ちた。しかも早い。それで、ある角度まで来て苦もなくはっきりととまった。むろん習って覚えたものではない。
「ちょっと伺いますが……」と言う声が白い歯のあいだから出た。きりりとしている。しかし鷹揚《おうよう》である。ただ夏のさかりに椎《しい》の実がなっているかと人に聞きそうには思われなかった。三四郎はそんな事に気のつく余裕はない。
「はあ」と言って立ち止まった。
「十五号室はどの辺になりましょう」
 十五号は三四郎が今出て来た部屋である。
「野々宮さんの部屋ですか」
 今度は女のほうが「はあ」と言う。
「野々宮さんの部屋はね、その角を曲がって突き当って、また左へ曲がって、二番目の右側です」
「その角を……」と言いながら女は細い指を前へ出した。
「ええ、ついその先の角です」
「どうもありがとう」
 女は行き過ぎた。三四郎は立ったまま、女の後姿を見守っている。女は角へ来た。曲がろうとするとたんに振り返った。三四郎は赤面するばかりに狼狽《ろうばい》した。女はにこりと笑って、この角ですかというようなあいずを顔でした。三四郎は思わずうなずいた。女の影は右へ切れて白い壁の中へ隠れた。
 三四郎はぶらりと玄関を出た。
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