。駅夫が屋根をどしどし踏んで、上から灯《ひ》のついたランプをさしこんでゆく。三四郎は思い出したように前の停車場《ステーション》で買った弁当を食いだした。
車が動きだして二分もたったろうと思うころ、例の女はすうと立って三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行った。この時女の帯の色がはじめて三四郎の目にはいった。三四郎は鮎《あゆ》の煮びたしの頭をくわえたまま女の後姿を見送っていた。便所に行ったんだなと思いながらしきりに食っている。
女はやがて帰って来た[#「帰って来た」は底本では「帰った来た」]。今度は正面が見えた。三四郎の弁当はもうしまいがけである。下を向いて一生懸命に箸《はし》を突っ込んで二口三口ほおばったが、女は、どうもまだ元の席へ帰らないらしい。もしやと思って、ひょいと目を上げて見るとやっぱり正面に立っていた。しかし三四郎が目を上げると同時に女は動きだした。ただ三四郎の横を通って、自分の座へ帰るべきところを、すぐと前へ来て、からだを横へ向けて、窓から首を出して、静かに外をながめだした。風が強くあたって、鬢《びん》がふわふわするところが三四郎の目にはいった。この時三四郎はからになった弁当の折《おり》を力いっぱいに窓からほうり出した。女の窓と三四郎の窓は一軒おきの隣であった。風に逆らってなげた折の蓋《ふた》が白く舞いもどったように見えた時、三四郎はとんだことをしたのかと気がついて、ふと女の顔を見た。顔はあいにく列車の外に出ていた。けれども、女は静かに首を引っ込めて更紗《さらさ》のハンケチで額のところを丁寧にふき始めた。三四郎はともかくもあやまるほうが安全だと考えた。
「ごめんなさい」と言った。
女は「いいえ」と答えた。まだ顔をふいている。三四郎はしかたなしに黙ってしまった。女も黙ってしまった。そうしてまた首を窓から出した。三、四人の乗客は暗いランプの下で、みんな寝ぼけた顔をしている。口をきいている者はだれもない。汽車だけがすさまじい音をたてて行く。三四郎は目を眠った。
しばらくすると「名古屋はもうじきでしょうか」と言う女の声がした。見るといつのまにか向き直って、及び腰になって、顔を三四郎のそばまでもって来ている。三四郎は驚いた。
「そうですね」と言ったが、はじめて東京へ行くんだからいっこう要領を得ない。
「この分では遅れますでしょうか」
「遅れるでしょう」
「
前へ
次へ
全182ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング