らない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。白い足袋《たび》の色も目についた。鼻緒《はなお》の色はとにかく草履《ぞうり》をはいていることもわかった。もう一人はまっしろである。これは団扇もなにも持っていない。ただ額に少し皺《しわ》を寄せて、向こう岸からおいかぶさりそうに、高く池の面に枝を伸ばした古木の奥をながめていた。団扇を持った女は少し前へ出ている。白いほうは一足|土堤《どて》の縁からさがっている。三四郎が見ると、二人の姿が筋かいに見える。
 この時三四郎の受けた感じはただきれいな色彩だということであった。けれどもいなか者だから、この色彩がどういうふうにきれいなのだか、口にも言えず、筆にも書けない。ただ白いほうが看護婦だと思ったばかりである。
 三四郎はまたみとれていた。すると白いほうが動きだした。用事のあるような動き方ではなかった。自分の足がいつのまにか動いたというふうであった。見ると団扇を持った女もいつのまにかまた動いている。二人は申し合わせたように用のない歩き方をして、坂を降りて来る。三四郎はやっぱり見ていた。
 坂の下に石橋がある。渡らなければまっすぐに理科大学の方へ出る。渡れば水ぎわを伝ってこっちへ来る。二人は石橋を渡った。
 団扇はもうかざしていない。左の手に白い小さな花を持って、それをかぎながら来る。かぎながら、鼻の下にあてがった花を見ながら、歩くので、目は伏せている。それで三四郎から一間ばかりの所へ来てひょいととまった。
「これはなんでしょう」と言って、仰向いた。頭の上には大きな椎《しい》の木が、日の目のもらないほど厚い葉を茂らして、丸い形に、水ぎわまで張り出していた。
「これは椎」と看護婦が言った。まるで子供に物を教えるようであった。
「そう。実はなっていないの」と言いながら、仰向いた顔をもとへもどす、その拍子《ひょうし》に三四郎を一目見た。三四郎はたしかに女の黒目の動く刹那《せつな》を意識した。その時色彩の感じはことごとく消えて、なんともいえぬある物に出会った。そのある物は汽車の女に「あなたは度胸のないかたですね」と言われた時の感じとどこか似通っている。三四郎は恐ろしくなった。
 二人の女は三四郎の前を通り過ぎる。若いほうが今までかいでいた白い花を三四郎の前へ落として行った。三四郎は二人の後姿をじっと見つめていた。看護婦は先へ行く。若い
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